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(勝手に)ART-SCHOOLやSPITZやGRAPEVINEの楽曲を全曲解説するBLOGです。
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『フェイクファー』

スピッツ,草野正宗,棚谷祐一,笹路正徳
ポリドール
(1998-03-25)

 
『ハチミツ』から、切り刻まれるような残酷ながらも切ない世界を描いてきた、彼らの一つの完成形。
全体が暖かい陽の光のトーンに包まれているが、描かれているのは、どこにも到達しない想いを抱えたまま、いたずらに触れ合うことに耽溺し、「君に触れていたい、それが偽物であっても今この瞬間は何一つ構わない」という、澄み切ったフェイクの世界。
筆舌に尽くし難いほどの名曲中の名曲である、タイトルトラックまで一気にセンチメントの季節を駆け抜ける。最終曲「フェイクファー」はこれまでスピッツの歌ってきたことを端的に表しながら、曲としての世界観が完成しきっていて、まさにスピッツ最高峰。

ジャケも、このアルバムの世界を上手く表していて、こちらを向いて微笑む女性の後ろに眩しい光が射しており、微妙や表情がつかめない。それでもこちらを向いている事は確かで、これに向き合えるかとこちらに訴えかけるよう。メンバーも自作で最も秀逸なジャケと絶賛している。内ジャケも、午後の陽の光が射す普通の日常的な風景を切り取っており、感傷的だ。
インナーのパッケージもまた、乳褐色の澄みながら濁ったもので、ジャケや世界観と絶妙にマッチしている。
まとめてみると、外的なイメージや世界観は、彼らのキャリアの中で最も凝っており、ブレが無い。まさに、陽の光が穏やかに眩しい、ある晴れた午後に聴きたいアルバムだ(自分もそんな時は決まって聴いている)。
 
サウンドの方は、中盤の「楓」まで、『空の飛び方』以降の彼らのそれを踏襲したマイルドな音作りになっているが、後半の「スーパーノヴァ」はハードロック、「ただ春を待つ」はサイケデリック、「謝謝!」はゴスペル、「ウィリー」はパワーポップと非常に多彩なサウンドメイクに挑戦している。それでいて、どれも澄んだ陽の光に照らされている世界を内包しているのが、素晴らしいところ。
これは『Crispy!』以降ずっとついていた笹路プロデューサーから離れ、ほぼセルフプロデュースにした事がとても大きいだろう。世界観の面はより濃く、サウンド面はより自由になっている。
マサムネ自身は「『ハチミツ』はLed Zeppelin、『インディゴ地平線』はDeep Purple、『フェイクファー』はBlack Sabbath」と語っている。また「センチメンタル」、「スーパーノヴァ」、「ウィリー」などを指して「リフ主体の曲でやってみたかった」と語っている。
 
このアルバムで一貫している世界はただ一つ。
「澄んだ陽の光の中で、ただ君といたい。それが嘘であっても、偽物であっても構わない。君のフェイクの暖かさや温もりに沈んでいたい」…その想いだけだ。
馬鹿な事と思うだろうか。その場しのぎの、陳腐なものだろうか。
いや、これは一瞬の、儚くも強かな祈りだ。
フェイクでも受け入れていく事、欲望に耽溺する事。酷く歪んでいても、ある種の美しさすら感じる。
それを表すように、このアルバムはこんな言葉で締めくくられる。
≪柔らかな心持った/初めて君と出会った≫
そして、この「フェイクでも構わない、それでも君のいる今が良い」という世界は、後にART-SCHOOLにも継承されている。

単純に聴けば、耳馴染みの良い、穏やかな光に包まれたアルバムだが、その内面はどうしようもなく儚く強かで歪んで綺麗で、そんな感情が蠢いている傑作なのだ。
個人的には『ハチミツ』から、このアルバムまでを中期スピッツと呼んでいる。
このアルバム以降、B面集『花鳥風月』をはさんで、フルアルバム『ハヤブサ』に進んでいくが、そこからはこの中期のテイストはあまり感じられない。このカラーを彼らが薄めていくことになるのは、ある"事件"によるのだが、それがどうあれ、このアルバムは中期の彼らが辿り着いた一つの境地だろう。
98年3月リリース(こうして見るとリリース時期もアルバムの雰囲気に合っている)。
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『インディゴ地平線』



 大ヒット作となった前作『ハチミツ』の後に続くのは、多くの批評家や昔からのファンから「原点回帰」的と称された、この『インディゴ地平線』だ。

全体的に見れば、中期に入ったスピッツが「現実」を直視はせずとも、どうにか目だけはそらさないでおこうとして見たそれの何気ないページに記された倦怠や憂鬱といった感じだろうか。既に、『惑星のかけら』の宇宙にまで飛んでいくようなスペーシーなまで爆裂に飛ぶこともなく、かと言って『空の飛び方』や『ハチミツ』のようなガーリッシュな男の子のメルヘンワールドでもなくなり、「飛ぶこと」に固執しすぎなくなった彼らは、どうしたかと言うと現実世界にある自然や人工的な景色の果てにもう一度、冷静に目を向けたのである。

こういう訳で「原点回帰」かと言うと、そうでもない。
なぜなら、ここには1st『スピッツ』で見られた不気味な擬音もないし、超初期に見られた過剰なまでの「僕」の主観もない。あるのは、タイトルトラックのように、「地平線の果てのここで、どこにも行けず途方もなく立ち尽くす僕たち」である。もう一度、言うが、立ち尽くす「僕」ではなく「僕たち」であるところが超初期との決定的な違いだ。だから、ここには「夕陽が笑う、君が笑う」から「君」もいるし「街道沿いのロイホ」には「ナナ」ちゃんもいる。
でも彼らはその景色に染まり多角的な広がりは見られない。そんな景色をただ僕は眺めている、といった感じだろうか。ここには過剰な「僕」もないし、鳥獣戯画の歓喜もないし、メルヘン男子の空想も大きく薄れはするけれど、まだ捨て切れない希望の目とそれに映る「君」がいる。前作『ハチミツ』が森ガール的だとすれば、こちらはだいぶん都会に出て来た感じがする。それでも「僕」の頭の中にはメルヘンではないにしろ、どこか「ここ」とは違う快楽があって、それを抱え込んだまま途方もなく歩いている感覚がする。


この感覚は次作の『フェイクファー』でプロデューサーからも離れ、さらに深化する(と言う訳で「原点回帰」という言葉をスピッツに敢えて使うならば次作か次々作の方が良いのでは、と思う。実際に超初期の盤と肩を並べるかという完成度だと評価しているファンもいる(自分のことです。苦笑)。)。それについては当該項を見ていただきたいが、次作も<<偽りの海で>>どこに向かうのかは分からないけれど<<箱の外へ>>としているのに対して、このアルバムは、まだ嘘だとか本当だとかは決めかねている感じもする。とにかく、今自分の目の前で起こっている景色を引き受け「たい」といった漠然な思いでとどまっている。だからこそ、青の果てのような秀逸なタイトルトラックも生まれ得たのだ。

地味ながらも、『ハチミツ』と『フェイクファー』という大傑作を結ぶのに欠かせなかったアルバム。
個人的には、この小2の頃にこのアルバムを初めて聴いたことでスピッツの世界に入ったので、自分の主観的基準が(最早スピッツを超えて音楽も超えて色々な物事を捉える上での)本作にあるので、どうしても客観的に見辛いが、どうにか捉えるならそんなところだろうか。

96年9月リリース。
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『ハチミツ』

スピッツ,草野正宗,笹路正徳
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
自他共に認め、商業的にも最も成功した世紀の名盤がこの『ハチミツ』。

前作で取り戻した超初期的な感覚を、これほどまでにないポップセンスでコーティング。もちろん、ところどころに毒を入れることは忘れずに、気がつけばスピッツの虜にさせるトリックも健在。

折りしも、Flipper's Guitarの余韻が残る渋谷系全盛の時代とも共振してスタイリッシュながらよく見ると禍々しいPVやどこか歪なアートワークも作品の内容と相まって伝わってくる。

タイトルに関してマサムネはROCKIN ON誌のインタビューで、「『溶け合う』と『飛ぶ』が2大キーワードで前作は『飛ぶ』の色が濃かったから、今回は『溶け合う』で」としている。

このアルバムが今までのスピッツのそれと決定的に違うのは、一人遊びや妄想の延長線上に、本当の『君』が存在することだ。何もない虚空を見つめた一人遊びの先に、できるならば、君と出会いたいと言う祈りが存在すること。これこそが、妄想青年、草野マサムネ変革の時期であると同時にスピッツと言うバンドの脱皮の時期であることが明確に分かる。

そんなアティテュードを示すかのように、このアルバムはこんな一節から始まる。
<<一人空しくビスケットの/しけってる日々を経て/出会った君が初めての/心さらけ出せる>>

これらの変化に対してテツヤは「マサムネは恋人第一主義だから恋人が変わったのがデカい」と冗談臭く話していたが、あながち間違ってはないだろう。


しかし、それでもスピッツの草野マサムネの苦悩は終わらない。
妄想を通り越して生身の君に出会ったとしても、思い通りにはいかないし、絡まっても虚しいし、生身だからこそ何も伝わらない、どこにも届かない…そう言った切なさや落胆の影がそこかしこに見受けられる。
ちなみにマサムネ自身は宝島誌のインタビューにおいて「やっと手を繋げるぐらいのカップルが公園を歩いていたとしても、周りに蝶々なんて飛んでなくて、猫の死体がすぐそばに転がっていたりとか。そういうのが日常でしょ、本当は。そこをさらっと表現できた」と語っている。このポップなメルヘンと残酷なセンシティヴィティが入り交じるアルバムに対して、まさに言い得て妙だ。

しかし、それでもスピッツは生身の『君』と出会う覚悟は決めたのだ。


だからこそ、ここから始まる…始めるのだ、と言うエヴァーグリーンな名盤。


今から振り返ると、これ以降、『インディゴ地平線』、『フェイクファー』と澄み渡りながらも、切り刻まれるくらいの残酷な切なさの世界を描く事になるスピッツの入り口とも解釈できる。どの切り口でこの作品を見つけようが、「転換」の名盤なのだ。
このBlogでは本作から『フェイクファー』までを中期としている。

95年9月リリース。
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『空の飛び方』

スピッツ
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
スピッツが過渡期にあることがまじまじと伝わってくる5th。

前作のポップ宣言も不発に終わり、超初期の壊れていく自我としての自分と潜在的にポップを求める自分にどう折り合いをつけて進んでいくかを模索していた当時。必然ではあるが、やはり奇跡的なアルバム『ハチミツ』のプレリュードであると考えて良いだろう。

ポップながら、超初期に見られた毒を取り戻し、よく考えれば禍々しい世界観である、と言う本来のスピッツに立ち返りながらも開けていく過程がうまく表されている。


中期のスピッツの大前提となる「世界に歪められている僕」と「それを救ってくれる君」という図式は既にこの時期から垣間見える。
壊されて、失って、歪んでいく僕と、ただただ一緒に堕ちて行くのではなく、救おうと献身してくれと願う退廃的な世界観をもって、日本のロックシーンはもちろんポップシーンまでをも席巻してしまったスピッツの秘訣はここにあるのかも知れない。



この時期の草野マサムネはROCKIN'ON JAPAN誌において、『俺が歌を作るテーマは「セックスと死」だけなんです』と公言している。

この発言は後にART-SCHOOL木下を惹きつけるほどの言葉だった。

セックスと死、それらに対して名状し難い畏敬の念をただただ祈り、歌うことで草野マサムネは歪みながらも極上のポップソングを体得することになる。

タイトルも秀逸で『空の飛び方』と言う、主観丸出しの方法論で攻めの姿勢が全面に出ている(ちなみに「空もとべるはず」の項でも書いているが、マサムネは単純に空を飛ぶというニュアンスではなく、「幽体離脱して曼荼羅の世界に行くような」とドラッギーな雰囲気を示唆している)。
フェチズムと変態的ポップソングに満ちたこのアルバムがどう聴かれるのか。

94年9月リリース。


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『Crispy!』

スピッツ
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
超、ではなく初期に入ったスピッツの4thアルバム。

語弊を恐れずに言えば、このアルバムは賛否両論、むしろやや否の方が多いアルバムとも言えるだろうか。

前作までのセールス的不振に切迫感を募らせていたスピッツはあえてオルタナティヴを精神性だけに残したまま、大胆にポップスを作り上げようとした(本人の言を直接言うとしたら「売れようと思った」)。結果的には外部からプロデューサーを招集したこともあり、今までのスピッツとは決定的に違うカラーのアルバムになった。

では、なぜこのアルバムが評価が分かれるどころか、むしろ否定的に解されたのか。
それは、やはりどこかで「無理している感」が出てしまっているからだろう。
確かに草野マサムネは、元々、偏執的オルタナ感と宇宙に届くポップス感を同時に持ちうる存在だったが、明らかに今作は後者を打ち出しすぎて不恰好になってしまっている。

次作以降、オルタナ感とポップ感を再構築し、世紀の名盤『ハチミツ』とそれに連なる『インディゴ地平線』や『フェイクファー』と言ったスピッツ流の健全なサウンドが出来上がるわけだが、その過程を今から考えるとやはり、このアルバムは不健全だ。確かに毒がないとは言えない、しかし、このポップ感はシラフじゃない。それがどこか不均等なイメージを思わせるのかも知れない。

マサムネは当時のインタビューで「前作で鬱屈したマイノリティに光を当てることはし切った。だから今作ではマイノリティの大群で勝利宣言を打ち出す」と語ったが、残念ながら、今までのファンの不信感も抱かせることになりセールスは相変わらず振るわなかった。


しかし、ここまで悪評に近いことを書き連ねたが、このアルバムが「失敗作」であるとは全く思わない。
むしろ、このアルバムが無ければ確実に『ハチミツ』は存在しなかった。
もちろん曲が良くも悪くもやはりポップすぎと言うのを、良い意味で解釈すれば、ここまで多幸感に溢れたアルバムはない(と言ってもシラフじゃなくて、ジャケのカラーリングみたいにエクスタシーか何かがキマっている感じさえある)。ホーンセクションも合わせて楽しめる人も少なくないのではないだろうか(とは言え、「ミスチルみたいな『良質ポップバンド』として括られたくはない」とも発言している)。

ジャケットは表はスピッツで唯一、メンバー(草野マサムネ)が写っているが、ヒッピー風のメイクを施しているので、そうとは見えない。赤・黄・青の原色をふんだんに使った全体的なカラーは、『名前をつけてやる』とは全く違ったドラッギーな雰囲気を表している。内ジャケはLSDが全盛だった60'sヒッピー文化を想起させるものだ。個人的には盤面が結構ポップ(ドラッグのカプセルみたいでもある。笑)で可愛いのでそこも好きだ。


確かに、どこかコケてる感は否めないが、失敗作と決め付けるのは大きな間違いだ。

93年9月リリース。
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『惑星のかけら』

スピッツ,スピッツ,草野正宗,長谷川智樹
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
スピッツ史上、最初で最後の暴力的なグランジアルバム。

前作の反動から再び、4人組としてのバンドサウンドに立ち返った彼らはシューゲイザー色を薄め(と言っても終盤はかなりシューゲだが)、代わりにグランジ的な荒々しさを全面に押し出した。しかし、その一方で究極のドリームポップやギターポップもある、と言ったオルタナとしての触れ幅が大きい野心的な作品でたくましい。

タイトルトラックである「惑星のかけら」から始まり、SF的なサイバーテクノポップ(シンセに起用されたのは、まさかの当時、解凍期であったP-MODELのキーボーディストのキーボード妖怪こと、ことぶき光!!)とギターポップの折衷と言える異色の曲「リコシェ号」で終わるこのアルバムはスピッツの中で、最も「無理やり」世界に突撃していこう、と言った感じのアルバムだ。

相変わらず、詞世界は閉じてはいるが、むしろその閉じた感覚を開き直っていて、君を引き寄せて飲み込んでやろう、と言った暴力性が見られる。性的な歌も、今までのおどけた感じや頼りない感じではなく、明らかにサディスティックさが増している。もちろん、それが妄想青年、草野マサムネの本質であるのは言うまでもない。

今までよりも、強引にトリップさせる感が強いこのアルバムは1stからの集大成でもあり、超初期のスピッツを考察する上で決して欠かせない。


裏ジャケは明らかにMy Bloody Valentine『Isn't Anything』のジャケのイメージを転用している。内ジャケのトイレの便器の中にいる金魚も不気味で良い。また、サウンド的にも終盤になるにつれてマイブラからの影響を色濃く打ち出している。その上にスペース・ロック的なサイケもある。


最も力強くカオスティックなこの作品でマサムネは2ndの不発を払拭してやろう、と半ば強引にシーンに躍り出たが、相変わらず売り上げは伸びなかった。

どんどん不安感が増してきた彼らは、それを踏まえて次作『Crispy!』で完全ポップ宣言を打ち立てたが、どうにも彼らには無理しているようにも見えた。
個人的には、この3rdまでを超初期スピッツと呼んでいる。マサムネ自身も自分の詞世界の真髄は、この3rdまでで出し切った、としておりこれ以降はサウンドも詞世界ともに異なるアプローチをしかけていくことになる。
92年9月リリース(『オーロラ〜』の半年以内にリリースされている)。
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『名前をつけてやる』

スピッツ,草野正宗
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
スピッツの超初期の名盤にして、彼らが打ち立てて来た歴史の中で未だに彼ら自身でさえ、越えられないのでは、とさえ思える1枚。

まだ彼らが本気で「歌謡シューゲイザー」と言う独自のジャンルを提唱していた頃の作品で、非常にポップながら、マサムネが偏愛していたRideやMy Bloody Valentineと言ったUKのシューゲイザー勢からの影響(個人的にはSlowdiveやAdorableあたりの感覚も強い)がそこかしこに表れている。

超初期の彼らの作品は一様に閉塞感に満ちていて、息苦しさをおどけてぼやかしてる様な切迫感がある。
1stは自分の持つ大衆性と不健康さを自分自身でコントロールし切れてなかった感があるが、本作は、それらを巧く使い分けているので不格好になっていない。
本作の雰囲気を端的に表すと「ノスタルジー」と「孤独さ」と「焦燥感」である。


草野マサムネは独創性に満ちた本作で本気で商業的に売れようと奮闘したが、結果的には時代のニーズに合わずセールス的には芳しくなかった。そして彼らは「歌謡シューゲイザー」と言うオリジナリティ溢れた手法を薄めていくことになる。

しかし今作は日本のオルタナ界における紛れもない金字塔の一つであるのも事実だ。
歌謡曲とシューゲイザーと言う異色の和洋折衷は未だに本作がリリースされて10年以上経った現在でも誰も足を踏み入れていない未踏の地である。


アートワークはサイケデリックで、耽美的と言うより、ドラッギーで不気味。
表ジャケのピントがおかしいでぶ猫ちゃんだけでも幻覚症状丸出しと言った感じだが、裏ジャケのメンバーの写り方も強烈だ(ちなみにこの手法はART-SCHOOLが「フリージア」のジャケで借用している)。
内ジャケもサイケデリア満載で、「プール」の項の蜘蛛も不気味だが「ウサギのバイク」〜「日曜日」の項の幻覚剤が効きすぎているようなアートワークもあまりに秀逸だ。

サウンド面では田村のベースがとても秀逸。決してメロディーを殺さずに、動き回る強かなベースラインは田村の特徴的な長所だが、このアルバムは他のどの盤よりもそれがすごく活きている。ベーシストはゼヒ聴いておくべき。

この時期のマサムネはROCKIN'ON JAPAN誌において、「どうせ死んじゃうんだし綺麗に生きよう、みたいな感覚」と発言している。せめて綺麗にありたい、そう願ったスピッツのダーティーでクリーン、アンビバレントな名盤。

91年11月リリース(1stの約半年後)。
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『スピッツ』

スピッツ,草野正宗,塩谷哲
ユニバーサルJ
(2002-10-16)


スピッツのデビュー盤。

Creation Recordsを意識したシンプルかつ、意味深なヒトデのジャケットが良い味を出している。1ヶ月でレコーディングが行われ、収録曲の半分はアマチュア時代からの曲。アマチュア時代からビートパンクから「和」の要素を強調して抽出していた面もある彼らだが、このアルバムの歌詞カードも縦書きで書かれているあたり、メジャー以降もその方法論は捨てないといった気概のようなものも伺えるかも知れない(これは次作『名前をつけてやる』でも同様)。

全体的な雰囲気としてはデビューアルバムに関わらず、他のアルバムに比べると印象が薄めではあるが、超初期スピッツの本質を上手く捉えたアルバムになっている。そして、同時に、デビューアルバムにも関わらず世界観が非常に閉じている。まさしく「2人で鍵かけた小さな世界」のこと、ひどく歪んだ性愛のことを歌い切っている。


草野マサムネの「一見、爽やかなポップ・ソングに凄まじい猛毒を潜ませることで嫌でもトリップさせる」スタイルは既にこのアルバムから確立されていている。

バンドブーム全盛期な中、スピッツはあくまで、ポップなままダウナーな世界を提示し切ることで、シーンにアプローチをしかけた。コアな音楽ジャンキーでありながらも、「野望はない」とか「元気に生きるのよりもフワッと死にたい」などと豪語(??)していた草野マサムネは時にFlipper's Guitarなどに例えられもしたが、本人は「(自分たちがパーフリに)申し訳ないから」とそれを否定。独自の路線を突き進んでいく。

大正期のダダイズムやアイヌ民族の伝承などに影響を受けていた当時のマサムネは、執拗なまでにアルバム全体に擬音語を織り交ぜている。それをポップととるか、不気味さを助長させるととるかはリスナー次第と言ったところか。

この時期の発言として、面白いのは「詞の内容からして内向的だから外に訴えるもんじゃない、って思いがある。サウンドの違いは暗いオナニーなのか派手なオナニーなのか、それだけ」がある。

この時は、後の大ブレイク=大衆を巻き込んだオナニー(それは既にオナニーではなくセックスであるが)ソングを産んでしまえるとは本人達含めメディアも評論家も誰もが予感していなかった。

91年3月リリース。

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『ヒバリのこころ』(ミニアルバム)

スピッツ
インディペンデントレーベル
(1990-03-21)

 
カセット(『SPITZ』、『恋のうた』など)やソノシート(「鳥になって)といった自主制作音源を発表していたインディー期のスピッツで現代に至るまで、マニア/コレクター品ではない正真正銘の正規盤として見れるのは、このアルバムからだろう。

スピッツの結成〜躍進の大きなきっかけとなった新宿ロフト関連のインディー、ミストラル・レーベルからリリースされたこの『ヒバリのこころ』は、端的にメジャー以降とは大きく異なる2点が挙げられる。

1つは、メジャー以降、マサムネが殊更に強調した(洋楽、特に英国のCreation Recordsを意識して)アーティスト(つまり自分自身)の写真をジャケットに一切つかわないという基本姿勢が、さすがにインディーまでは貫かれていないようで、ジャケットには(サイケ風に歪んではいるけれど)普通にマサムネのどアップと他3人が平然と映り込んでいる。やはり「弱い犬ほどキャンキャン吠える」が心情のスピッツでもまだ、インディー期は、それまでの日本のエンターテインメント業界の慣習に反発できなかったのか。

2つめは、サウンド面に未だビートパンクを通過した名残がメジャ=以降とは比べ物にならないくらい残っていることだ。それはタイトルトラック「ヒバリのこころ」を聴いただけで瞭然だ。ネオアコでも(単純な)パンクでもないおかしくも激しい演奏と、さらにおかしくも激しい言葉の魔術で聴く者を魅了するスピッツであるが、このアルバムでは幾分パンクによっている。


しかし、この時点で既に草野マサムネの世界観は発揮されており、その証明にもなるかのように、結果的に「353号線のうた」と「死にもの狂いのカゲロウを見ていた」以外は歌詞やアレンジを少し変えてメジャー以降のディスコグラフィー入りを果たしている(音源化はされていないが後者も実はDVDのボーナス映像でプレイされている)。
既にマサムネの歌詞はストレートに歪つでポップでキュートなのにパラノイアックだ。
もちろん演奏、歌詞、スタイルなどどれをとってもメジャー以降の方が更に磨きがかかっていることは言うまでもないが、スピッツというバンドを紐解く際にこのアルバムが出発点として出されるのも必然であるほどのマサムネの確固たる初期衝動に満ちている。

90年3月リリース。
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『フリージア』

ART-SCHOOL,木下理樹,戸高賢史
ポニーキャニオン
(2006-04-19)

 
第二期のARTが初めてリリースしたmini album(個人的には初めてリアルタイムで買ったARTの盤なので思い入れ深い)。

【特徴】
・幽玄な前アルバム『PARADISE LOST』から一転して、『Flora』期を予感させるようなギターポップで穏やかな4曲シングル。
・今作では初めてART-SCHOOLとしては木下以外のメンバーが作詞・作曲、そしてVoまでもを手がけた曲が収録された。
・ジャケットはスピッツ『名前をつけてやる』のオマージュ。一人一人のメンバーがぐにゃっと曲がった感触も似ている。

2006年4月発売。


1.フリージア
シングル・トラックではあるものの、惜しくもオリジナル・アルバム収録の機会を失っており、ベスト盤に収録されるまで、他のシングルに比べるとあまり陽の目を見られなかった曲。
アンビエント風のSEと共に奏でられるギターのアルペジオが、『PARADISE LOST』期とは違い輪郭がハッキリしておりながら、優しい率直なギターロック感のある曲。サビなどで鳴らされるグロッケンの音色も、『PARADISE LOST』のそれよりも、賛美的に響いている。
<<裸のままの君の裸のままに触れていたい>>というサビの一節は、第二期当初で見られたエロティックで官能的な響きではなく、どちらかと言えば静謐な身体に触るかのような感覚を覚える。かと言って、手放しでポジティヴかと言うと、そこはもちろんART-SCHOOL、<<綺麗なままじゃきっと見えないものがあるのさ/この哀しみが/この憎しみが>>と歌い切る様が清冽だ。
PVはホームレスのような浮浪者に扮したメンバーが集まり、演奏するといったもの(最早、言うまでもないが、今回も櫻井が良い味を出している)。


2.光と身体
「フリージア」ではなく、『Flora』に収録されたのは、こちらの曲だった。
タイトルはどことなく、GRAPEVINE「涙と身体」を思わせるセクシャルなもの。
歌詞をみてみると、<<すれ違った優しげな天使は/いつも通り青い血に染まった>>は、(その当ブログの当該記事でも触れているが)スピッツ「愛のことば」からの引用で、どちらもあまりに残虐かつ神聖な清冽な感覚を活かすことに成功している。
個人的に歌詞的な意味では、ART-SCHOOLの中でリアルタイムで聴いて最も驚いた曲だった。ここまで「君」に向けたメッセージが明確な曲もなかったように思えたからだ。
<<あの光は遠ざかっていく>>のに、今までのARTならば黙って涙をこらえながら震えながらそれを見つめ続けることしかできなかった。しかし、ここでは<<手を繋いでいよう>>と「君」へ明確に手を伸ばしている。この情景は、これ以降、第二期ARTの原風景とも言えるような地点になってくる。


3.キカ
ART-SCHOOLとして初めて戸高がヴォーカルを取った曲。
前曲の流れを引き継ぎつつも一転して、アンビエントな景色が広がるようなポストロックなメロディが麗しい。
歌詞は、第一期的のART的な異国情緒を第二期的な幻想的な景色に滲ませている。<<無垢な狂気/晴れた午後に>>や<<イノセントは黒く染まる>>など木下にも引けを取らないくらい、鬱屈した情景を歌った部分も多いが端麗なメロディと戸高のドリーミーなヴォーカルゆえに、思わず気付かずにいてしまいそうなくらいだ。
戸高の曲は、この後も現時点で数曲、収録されているが、その中でも最もドリーミーな曲だろう(オーストリアの画家、アルフォンス・ミュシャに影響を受けたと公言する戸高だが、そのような教会的な賛美歌の要素が早くも垣間見える)。


4.LOVERS LOVER
「カノン」同様、The Cure「High」的なドラムが心地良いが、歌詞の方は、一見、ポジティヴな言葉を使っているようで、どこまでも尽きることのない諦念を歌っているという面では、かなり歪つな曲。個人的にもARTの中で「LUCY」に続けてベスト3に入るほど好きだ。
<<彼女の手は光の中に、彼の手は影の中にあったんだ>>は村上春樹『1973年のピンボール』からの引用。
ART特有のファンタジックな風景が目に浮かぶ詞ではあるが、よく聴いてみると、生と性への諦めさえ感じさせるグロテスクな構成としてはスピッツに近いかも知れない。
サビの<<I wanna drown in you>>は、木下も気に入っていたのか、当時のツアーグッズにも、この言葉がプリントされていたと記憶している。


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