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(勝手に)ART-SCHOOLやSPITZやGRAPEVINEの楽曲を全曲解説するBLOGです。
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New!!!『ハヤブサ』

スピッツ,スピッツ,草野正宗,石田小吉
ポリドール
(2000-07-26)

 
切り刻まれるくらい残酷なまでのセンチメンタル、世界に歪まされていく僕とそれを救ってくれる君、一瞬の嘘とそれへの耽溺…中期スピッツは、名盤『ハチミツ』〜『フェイクファー』にかけて徹底して、それらの瑞々しい感性を研ぎすまし、自分たちの方法論を確立すると同時にセールス的な成功を獲得することにも成功した。

その上で、この『ハヤブサ』からは、それを超えて近代スピッツの幕開けである。
…はずなのだが、そのサウンドも歌詞も中期で凝縮してきたエッセンスとは明らかに毛色が違うものが提示されたのも、またこの『ハヤブサ』だった。

前作にあたる『フェイクファー』から約2年後にあたる『ハヤブサ』のリリースまでにスピッツの周辺は多くの環境が変化した(この期間、全くの空白ではなくミニアルバムでもシングルでもない、と銘打ってリリースした「99ep」、前記事にも書いたB面集第一弾『花鳥風月』、そしてバンド初のベストアルバム?『RECYCLE』がリリースされていた)。
それはグッドなものからバッドなものまでとても幅が広く、その変化の中でスピッツというバンドは、一度死んで蘇生した、とも言える(事実、単行本『旅の途中』でもイントロダクションで、そのように語られている)。



彼らが迎えた非常に多くの変化の中で特に大きかったのは以下の3点だ(ここでは楽曲解説と離れすぎないように絞ったが、その期間の詳細は単行本『旅の途中』や別冊宝島誌36に詳しい)。

1.現在でもスピッツの5人めのメンバーとも言えるキーボーディストのクージーとの出会い
→その成果が早速「99ep」としてリリースされた(収録曲3曲は、後にB面曲集代2弾『色色衣』に収録されたので、解説もその際に)。これを期にマサムネは「売れるか売れないか」といった彼が初期から捕われてしまっていたセールス的にどうか、という視点から逃れたセッションが多く行われることになった(その多くは後にシングルのB面に配される曲になった=現在では『色色衣』から聴くことができる)。とは言え、マサムネはこれらの曲を「どこか中途半端だった」とも語ってもいる。


2.レコーディング環境と作品の感触への違和感と試行錯誤
→『インディゴ地平線』よりCDとしての自分たちの作品が、あまりにローファイすぎてハリがないと考えていた4人は自分たちの望む出音としてのサウンドに近づける(マサムネ曰く、「耳に飛び込むような音」「スタジオで鳴ってるそのままの感じ」、田村曰く「『惑星のかけら』みたいなグランジな音と切ないリヴァーヴ感」「ラウドなロック感をそのままに」、崎ちゃん曰く、「細くない大音量のドラム」が欲しかったと『旅の途中』で書いている。それらを踏まえテツヤは同書にて「スピッツの4人は元々ギター主体のバンドが好きな4人が集まったから特に(ギターの)"歪み"へのこだわりが強かった」としている。どの意見も、彼らの頭で鳴ってほしい音と実際の作品の音が乖離してしまっていたことへの懸念だ。全員に共通するのは、とかく「迫力の無さ」への不満だった)ために、レコーディング環境を変えようと、楽曲単位でもエンジニアを変えレコーディングスタジオ自体も変え、初めての海外(米国、LAやマイアミにて)でのレコーディング・ミキシングも経験した。
柔軟に環境を変えたことで、場数も踏み、作品は(一進一退の一面もあったものの)完成するたびに彼らの望むサウンドに確実に近くなってきた。


3.メンバーたち当人の意思に反した名目上のベスト盤のリリース
→1stアルバム『スピッツ』から、彼らは自分たちの作品リリースについてかなりポリシーを持ってきていた。その一つはジャケットにメンバーを映さない、だった(『Crispy!』除く。とは言ってもあれも、まずマサムネだと初見では分かり辛いが)。そのポリシーの中でも大きかったことの一つは、『花鳥風月』の項にも書いた「ベストアルバムのリリースは解散の時」だった。
が、メンバーたちが2のように、レコーディングに頭を抱えながらも没頭している時にレコード会社からベスト盤のリリースをメンバー自身にも一方的に「決定事項として告知された」。
彼らが「自分たちのベストアルバムのリリースのアナウンスを自分たち自身が聞かされた」時に直感的に思った、それぞれの感情は『旅の途中』から抜粋すると、
田村:正直カチンときた(中略)ベスト盤ブームに対するアンチテーゼで『花鳥風月』を出したのに、俺たちがテーゼの方になってどうする!
テツヤ:(ベストアルバムは解散の時という)発言したことと違うことををするのは格好悪い。
崎ちゃん:そんなことがあるのか。メンバーの意思と違うところでそう言う話が動くのか。
マサムネ:正直、拍子抜けした。スピッツをとりまく音楽ビジネスの状況を見ていれば「そういうこともあるかも」とは思っていたから。(中略)「ベスト盤を出すのは解散するとき」と言ってたから、格好悪いなあと思った。
こう列挙すると田村が特に怒りを露にしていたように見えるが(マサムネの言では実際にメンバーの中で最も怒っていた、とのこと)、『花鳥風月』に際して自分たちがした、シーンに対しての宣戦布告的なアナウンスが嘘になってしまうという思いは、4人で共通していた。
ファンにベストの発売がスピッツの意思とは無関係であると伝えることを前提として、「最低限の責任」としてタイトル、選曲、ジャケットデザイン、マスタリングに立ち会うこととなった。
リリースされたベスト盤、タイトルは『RECYCLE』(使い回し)、選曲はセルアウトされた自分たちで認める「世間での認知度が高い曲だけ」を選ぶという適当なもの、ジャケットは太極図が描かれた(彼らお得意の「意味のないようにも意味を見いだせそうにも見せる」という意匠さえも排した)本当に意味のない質素なプリントの上に「SPITZ RECYCLE Greatest Hits of ZTIPS」と自らを鏡文字にすることで「背信」の意を明確に見せるなど、自虐と言うよりも、自嘲的とまでに映る痛々しいリリースとなった。
リリース後も、公式サイトでも当初の予定通りファンにアルバムのリリースは不本意であるとアナウンス、FC会報やラジオでは「(自分たちの意向が無視されたアルバムなので)買わなくていい」とまで宣うという徹底ぶり。
このリリースそのもので不信感を抱いたファンもいれば、痛々しいまでの露骨なアルバム内容とプロモーションで「大人げない」と揶揄したファンもいた。




…と言ったような、一連の流れの中で試行錯誤の中から大きな展望と同時に大きな失意を通過してリリースされたのが、この『ハヤブサ』だ。

なので、当然のごとく、彼らのスタンスを改めて見せるためにも、またレコーディング試行錯誤の末の大きな展望の成果を見せるためにも、作風は中期までとは異なり、暴力的なまでに野心が見えて、エッジの立ったものになっている。
『惑星のかけら』が妄想青年のグランジアルバムならば、この『ハヤブサ』は現実を見据えた青年が一瞬の刹那の時に身を委ねたかのようなオルタナティヴなアルバム。
実際、現時点で見てもここまでの彼らのキャリアで、オルタナティヴ「ロック」色の強い作品はこのアルバムが随一だろう。


試行錯誤の末に体得した、今聴いてもどの曲もプレイボタンを押した途端に耳の奥まで飛び込んでくるかのような迫力のあるサウンド(それは「ジュテーム?」のような簡素な曲でも同じで、それまでの弾き語りスタイルの曲よりも、圧倒的にクリアに聴こえる)は、どれも最早、昔の妄想青年のものでも、空想好きのキュート男子でもなく、凛々しく立とう「と頑張っている」力強いものだ。

今聴き返してみれば、このアルバムもまた当時の急激ながらも意志をもった彼らの変革の時期だからか『Crispy!』同様に過渡期ゆえのまとまりのなさも思わせるが、それよりもこのハードなオルタナ感を前面に見せつつも肝心のポップセンスは決して手放していないという意味では『Crispy!』のような過渡期ゆえの散漫さは見られない(とは言え、難しいところだ。『Crispy!』はキメちゃってるくらいまでに振り切ってポップなアルバムになっているのに対して、『ハヤブサ』はかなりロック寄りになっているが、当時の切迫していた『Crispy!』の無理しちゃってる感もイケる人からすれば、この『ハヤブサ』は逆ベクトルでありながら手慣れているようにも聴こえてしまうかも知れない)。

プロデューサーに、初めて同年代のex-Spiral Lifeの石田ショーチキを起用したのも、いつもはポップセンスを輝かせるのに、「ハードに演るならいっそぶっ壊すくらいハードにやっちゃえば!?」なんて発言もしてしまえる石田の大胆ながらも繊細なバランス感覚に惹かれて野心の実現を共にするためである。

サウンドは全体的にポップながらも、どのアルバムよりも野心的なエッジが立ったものであるが、歌詞だけを抽出してみると実は『フェイクファー』からめちゃくちゃ大きな変化が生まれている訳ではなく、むしろ『フェイクファー』の「フェイクでも受け入れ耽溺し切る無邪気に切り裂かれるまでの偽物の世界」があったからこそ、と言えるものになっている。
このアルバムは全体に見れば、先にも書いた様に、「一瞬の刹那に身を委ね、その度々に溺れながらも、いつかはその場所を離れなくてはならない」ことを自覚しているような今までに見られなかった構成になっている。一瞬の刹那に身を委ねきること、溺れきることは、それぞれ初期や中期にも見られたが、このアルバムはさらにその先、どこか没入した後の「醒めた感覚」も持っている。
この感覚はサウンドのまとまりも踏まえて次作『三日月ロック』に昇華されているが、ここでは、ぶきっちょゆえのリアリティとフェイクを交差する言葉が光るのが、偶然ながらも面白いところでもある。

ジャケットはスピッツのオリジナルアルバムとしては初の、歌詞カードを小冊子風に分離した構造をしており、これまた初の縦に見るジャケット。そのジャケットの方は1stの頃からあった「和」の感覚を前面に押し出した、アルバムの内容も相まって暗闇の中で一瞬の雅に身を委ねているかのような幻想的な感覚さえにじみ出てくるもの(『ハヤブサ』、がジャケットでは「隼」と漢字表記なのも和を演出している)。


ジャケットのついでと言ってしまえば難だが、たまには機材的な話でも曲解説の補助的に書いてみようと思う。
マサムネはこの『ハヤブサ』期から、ムスタングを大々的にライブ、PV、レコーディングでフィーチャーしている(Fenderのものではない。Fenderのムスタングは次作の『三日月ロック』期にPVで使われる)。現在はムスタングの形をしたサイクロン(サイクロンもムスタングの延長線上で作られたギターであるから非常によく似たシェイプをしているが)形態のギターをメインにしてムスタングはサブになっているが、このアルバムではムスタング特有のジャキッとしたシングルコイルの音色が随所で聴かれる。
「じゃじゃ馬」「おてんば娘」という名前が表す通り、スチューデントモデルのギターとして登場したムスタングは(サイクロンもスチューデントモデルの一つ)、そのショートスケールの小柄な見た目に反して、かなり癖が強い割に操作性が低く、暴れ回るようなサウンドが欠点であると同時に、最上の魅力でもあるギターだが、マサムネはこのアルバムでそのムスタングの暴れ狂うようにキュートにギャンギャン鳴り響く音色に「乗りこなす」ことに成功している。
ので、ムスタングファンは、このアルバムを一つのムスタングが光るアルバムとして参考にしてみてはどうだろうか(個人的にはベースプレイヤーだった高校時代の途中からギターも買うことにして、最初のギターから今までずっとムスタングをメイン・ギターにしているが、今でもこのアルバムはムスタングの音作りに迷ったら聴き返している。ちなみに個人的なサブギターはマサムネとは逆で、サイクロンです…)。このムスタングを導入したこともあえて荒れ狂う攻撃的なサウンドとしての野心の表れにも思える。

テツヤは変わらずレスポールがメインだが、この時期のテツヤは個人的には、あえて機材よりも彼自身のルックスに注目したい。笑
「メモリーズ」や「放浪カモメはどこまでも」のPVでも見られるが、ウルフを通り越してトサカのようになった、まっ金髪のモヒカンカットに前髪をなぜか一部分だけ残しており、そこをワックスか何かでガチガチに固めているのか、文字通り「鬼のような形相」を呈している。それにも関わらず、ギターは相変わらず繊細で緻密なプレイに徹しており、今回暴れるギターはマサムネのムスタングに任せている面も大きいのがまた、テツヤ「らしい」。

田村は移り気のしやすいベーシストだが、このアルバムではリッケンベースをフィーチャーしている。The WhoのJohn Entwistleに影響を受けた田村らしく、暴虐なまでに暴れ回るウワモノの中をメロディアスなベースでマサムネのヴォーカルを引き立てている様がクールだ。

崎ちゃんはこの時期のツアーにおいて、バスドラムにドデカく「隼」と描かれたドラムセットでプレイしていた。その実直なスタイルと「メモリーズ・カスタム」のように振り切った爆発的なドラミングがオーディエンスをアジテイトするのに成功していたことは言うまでもない。


一瞬の刹那の雅に浸りつつ、どこか醒めた彼らの感性は『三日月ロック』で洗練される前にここで無骨に出されている。彼らも、ここまでくると、ナードロックンローラーではなくクールなロッカーなのだ(と「言うフリ」くらいにしているところが彼ららしい。笑)


2000年7月リリース。
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『オーロラになれなかった人のために』(Rewrite)

 
現時点で、スピッツ唯一のミニ・アルバム(e.p.を除いた場合)。

今でも賛否両論とも言われる、オーケストラを大々的にフィーチャーして草野マサムネのソロのようなテイストに仕上げた、本人曰く「スペシャル・ミニ・アルバム」。

前作『名前をつけてやる』から僅か5ヶ月でレコーディングされたこともあり、世界観としては前作をある程度、引き継いだ感触であり、オーケストラをしたがえたからと言って、殊更に明るくなったり、無闇に壮大になったりしているワケではない。
むしろ、詞世界の歪つな感じはいまだに色濃く出ている(「ナイフ」などは特にそれが秀逸)。

そもそも、『オーロラになれなかった人のために』と言うタイトルからして、退廃的な感覚を打ち出している。
別冊宝島誌36によると「アラスカの北極圏に住む先住民の『死んだ人はオーロラになる』と言う言い伝えから採ったタイトル」であるとのこと。と、すると、さしずめ、「死に切れなかった人のために」といったところか。相変わらず、後ろ向きでダウナーな世界を引きずっている。


オーケストラを取り入れた背景にはプログレへの憧憬が少なからずあった(マサムネいわく「お茶の間プログレを目指した」とのこと)と言う。しかし、全曲プログレ的と言うよりは、セカンド・サマー・オブ・ラブ的なグルーヴィーな楽曲まである。単行本『旅の途中』によると田村はアレンジにThe Who『四重人格』を引き合いに出してオーダーしていたとのこと。

内ジャケのアー写はThe Smithsを意識したものか。

次作『惑星のかけら』は打って変わって、あくまで4人のバンドサウンドを大前提にしたグランジ/オルタナのアルバムを打ち立てたのも納得できる、良くも悪くも広がりすぎたアルバム。

92年4月リリース(『名前をつけてやる』から半年以内)。


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『おるたな』

スピッツ
ユニバーサルJ
(2012-02-01)

 
2012年2月リリース。

『花鳥風月』、『色色衣』に続くB面集第3弾。
初回限定版には前2B面作と同様、ディレクターズノートが付いた紙ジャケになっている(前2作のそれとは違って今回は、竹内修氏一人によるもの)。


まさにポップ&オルタナティヴを地でいくスピッツのタイトル通り『おるたな』な一面(これは『花鳥風月』や『色色衣』でも同じ)で、言うまでもなく『とげまる』のタイトルを踏襲している。

B面集とは言え、前2作とは趣きが異なり、アマチュア時代やインディー時代の曲は収録されておらず、こちらは収録曲のおよそ半分がカヴァー曲になっている。
ディレクターズノートにも書いてあるが、スピッツは元々イベントなどでカヴァー曲を披露することは他のアーティストに比べると多い方であることは、スピッツ=ライヴバンドであると認識しているファンには周知の事実であったが、ライトなファンにはあまり知られていない事実だろう。ノートにあるようにチャットモンチーのカヴァー(「シャングリラ」)や(これはノートには書いてないが)Aerosmithのようなハードロックのカヴァーを披露することも多いスピッツだが、今作は「スピッツ」としてカヴァーしてきた公式音源を全て網羅している(「スピッツ」として、としたのは草野マサムネの個人名義では「木綿のハンカチーフ」もカヴァーしているからだ)。
(まあ逆に言えば、スピッツをB面、カヴァーともにコンプリートしてきたファン(自分のことです苦笑)にとっては新録曲が少ないようにも感じますが…苦笑)


そういった意味でスピッツ×Somebodyといった化学変化を楽しむことができ、オルタナでもあるが、やはりB面曲。
特に、『花鳥風月』や『色色衣』より圧倒的に曲順の流れが良く、雑多なカップリング曲が全体を通して一つのドラマのようにも聴こえる。サウンド的には『フェイクファー』のように、全体がバラバラな曲調にも関わらず全編通して聴いた時に感じられる妙な統一感こそが、このアルバムでスピッツが見せるオルタナティヴな部分だろう。
牧歌的な「リコリス」「テクテク」、エッジのたった「ラクガキ王国」「まもるさん」、カヴァー曲として非常に秀逸な「タイム・トラベル」「初恋に捧ぐ」、そしてこのアルバムで最も過虐性すら感じられる(これは一曲ずつの解説の時に述べたい)「さよなら大好きな人」〜「オケラ」の流れに至るまで曲調は共通項はほぼ無いにも関わらず、一枚のアルバムに入る必然性のようなものすら感じる。

また多くの曲のキーボーディストにクージーだけでなく、メレンゲのバックでも活躍している皆川真人を起用していることも注目したい。初恋の嵐の復帰ライヴでも度々共演しているメレンゲであるが、そのテイストをスピッツにも持ってきた(そもそもメレンゲはスピッツを陰陽に分けた時、陽の部分を特に際立たせたバンドであるという持論を自分はよく展開している。ちなみに陰の部分を際立たせたバンドは言うまでもなくART-SCHOOLだと思います)ことが、とびきりに切なく、しかし見えない傷跡としてたしかに残るというようなメレンゲのセンチメンタルを思わせるようだ。

全編を通した時に感じられる究極的なポップでありながらオルタナティヴな感覚は、やはり、未だにどのアーティストも到達し切れない高い点に至っている。

そう、スピッツはやはりオルタナティヴロックバンドなのだ。
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『とげまる』

スピッツ
A-hi Records
(2010-10-27)

 
現時点で、スピッツの最新作であり、現代スピッツの集大成的な名作。

『三日月ロック』以降のハイファイで躍動的なサウンドメイキング、『スーベニア』以降の現代的な邦楽ロックのフォーマットに沿いつつひねくれた曲構成に、中期、特に『インディゴ地平線』〜『フェイクファー』で見られた、澄んだ想いゆえの残酷で、純粋な世界観が乗せられている。

まずサウンド面では、『スーベニア』以降(兆候としては『三日月ロック』の時点で既)に見られた、どこか「若作りしている」とも揶揄されがちだった、アップビートな曲調をスピッツお得意の驚異的なポップセンスでコーティングすることにより、立体的で説得力のあるものになっている。一曲ずつ見ると、BUMP OF CHICKENやSTRAIGHTENER、100sにエレファントカシマシのようなテイストの曲も多いが、もちろん、それらの最新のシーンに追随するような形では無く、自らのメロディをもってうまく食い入っている野心さも見られて面白い。


しかし、それだけなら、この『とげまる』は名作にはなり得ないだろう。
なぜなら、このアルバムは、ここのところ、なりを潜めていた、彼らのフェイク性、嘘、そして、猛毒が隠されているだけでなく、それらが、純粋ゆえの毒であることが、いとも平然と歌われているからだ。
「ビギナー」と言う無垢な世界から始まり、「初恋クレイジー」の更に次の世界を思わせる「恋する凡人」へと繋がっていく最初の流れから見ると、力強い優秀なポップバンドであるが、「TRABANT」以降から、だんだんと「とげ」が露骨に見え始め、「えにし」でどんどん歪み、遂には「どんどどん」、「君は太陽」のラスト2曲では完全な背徳を体現している。

このアルバムは、<<ビギナーのまま/動き続けるよ>>という無垢な祈りから始まり、<<理想の世界じゃないけど/大丈夫そうなんで>>という歪んだフェイクに着地することに、最大の意味があるだろう。
そう言う意味では、ビギナーのまま、曲がっていく一人の人間を主人公にしたコンセプトアルバムのようにも見えてしまう。

マサムネはMUSICA誌において、この「とげ」を堂々と出しながらも「まる」も臆せずに出すスタイルは「昔からアングラ/サブカルに憧憬を抱いてる部分の俺をちょっと騙しつつやってた面もあってたけど、もう今回はサブカルに憧れる俺も納得するような感じになった」と豪語している。

純粋であるが故に、それから逃れられず、純粋なまま崩れて、溺れていく。
それは、中期スピッツが描いていた世界観でありながら、今、この時代で、このサウンドで鳴らされることに奇妙な説得力を持っている。
まさに、「とげ」と「まる」が共存する世界。
「まる」が無ければ、「とげ」はなく、「とげ」のない「まる」もまた、「まる」でない。


内ジャケは『三日月ロック』同様に、ザラッとした手触りのもので、それも、昔からの世界を継承していることを思わせる。

2010年10月リリース。
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『花鳥風月』

スピッツ,草野正宗,白井良明,笹路正徳,棚谷祐一,土方隆行,クジヒロコ
ポリドール
(1999-03-25)

 
『色色衣』の前のスピッツB面集第一弾が、この『花鳥風月』。

既に8枚のアルバムをリリースしてきたスピッツにベストアルバムを…というむきもあったレコード会社の意向に反して、敢えてB面集というリリース形態を取ったのは、例えば前作の「運命の人」で、横文字を排除したような当時のシーンへのささやかなアンチテーゼであったという(後に叶わないことになってしまったが、「ベストアルバムを出すときは解散する時」とまで豪語していた)。

インナースリーブでは、メンバーによる特別対談が記されており、内容はリリースの意図や各曲の紹介などで、この全曲解説でもそれを参照したいと思う。それの田村の発言によると「レコーディングしてた時にはシングル候補として録音したのに、結局カップリングになった挙句アルバムに可哀想な曲があって、そういう曲に陽の目を、というアルバム」とし、崎ちゃんも「ライブでやってない曲もあるよね」と続け、マサムネは「そういう主役になれなかった"無冠の帝王"たち」と苦笑しつつ締めくくっている。
その言葉通り、少なくない数の曲がシングル向きと言えるような説得力を持っているし、どの曲もアルバムにひと味入れるのに手伝いそうな曲ばかりだ。

マサムネは後に、そのアルバムの性質から、「実際クオリティは高いけれど、『このアルバムが一番好き!!』とか言われるとちょっと複雑になる」と語ったが、個人的にはこのアルバムをベストアルバムに挙げている人は少なくないし、実際に自分も一時期までは、そうかも?と思っていた。苦笑

それと言うのもやはり、楽曲のクオリティが単なるB面の枠に収まらないものであると同時に、何故か、このアルバム全体の空気がB面集なりの「日陰者」のようなムード(しかし、それは決して卑屈なものではなく、表には出さない隠していた気持ち/原動力という感じだ)もあり(仮タイトルが『裏街道』であったことも、それを示しているようだ)、妙な統一性を生んでいることも大きい。
ジャケットが示すように、どこか秋の終わりの迫り来る物哀しさ、ノスタルジアに満ちているのも魅力的だ。またサウンド的には、もちろん意図せずだろうが、ギターのサスティンが長くエフェクターなどで音色にこだわった曲が多いのも特徴と言えるだろう。


このアルバムでベストアルバムではなく『裏街道』の露出というオルタナティヴなテーゼを打ち出した彼らであったが、そのベストアルバムは、ある「事件」により、この後簡単にリリースされてしまう。不買呼びかけ運動などを起こさなかったものの、メンバーから直々に謝罪文を発表するなど異例の騒動になったこのベストアルバムの後に彼らは「近代」に入る。
つまり、これは超初期〜初期〜中期までの彼らの「まだ言えていなかった想い」を詰めたものであり、それは華々しい輝きというよりは、彼らの裏側を晒したような脆さも持っている、メンタリティとしては最もオルタナティヴなアルバムと言えるかも知れない。

99年3月リリース。
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『フェイクファー』

スピッツ,草野正宗,棚谷祐一,笹路正徳
ポリドール
(1998-03-25)

 
『ハチミツ』から、切り刻まれるような残酷ながらも切ない世界を描いてきた、彼らの一つの完成形。
全体が暖かい陽の光のトーンに包まれているが、描かれているのは、どこにも到達しない想いを抱えたまま、いたずらに触れ合うことに耽溺し、「君に触れていたい、それが偽物であっても今この瞬間は何一つ構わない」という、澄み切ったフェイクの世界。
筆舌に尽くし難いほどの名曲中の名曲である、タイトルトラックまで一気にセンチメントの季節を駆け抜ける。最終曲「フェイクファー」はこれまでスピッツの歌ってきたことを端的に表しながら、曲としての世界観が完成しきっていて、まさにスピッツ最高峰。

ジャケも、このアルバムの世界を上手く表していて、こちらを向いて微笑む女性の後ろに眩しい光が射しており、微妙や表情がつかめない。それでもこちらを向いている事は確かで、これに向き合えるかとこちらに訴えかけるよう。メンバーも自作で最も秀逸なジャケと絶賛している。内ジャケも、午後の陽の光が射す普通の日常的な風景を切り取っており、感傷的だ。
インナーのパッケージもまた、乳褐色の澄みながら濁ったもので、ジャケや世界観と絶妙にマッチしている。
まとめてみると、外的なイメージや世界観は、彼らのキャリアの中で最も凝っており、ブレが無い。まさに、陽の光が穏やかに眩しい、ある晴れた午後に聴きたいアルバムだ(自分もそんな時は決まって聴いている)。
 
サウンドの方は、中盤の「楓」まで、『空の飛び方』以降の彼らのそれを踏襲したマイルドな音作りになっているが、後半の「スーパーノヴァ」はハードロック、「ただ春を待つ」はサイケデリック、「謝謝!」はゴスペル、「ウィリー」はパワーポップと非常に多彩なサウンドメイクに挑戦している。それでいて、どれも澄んだ陽の光に照らされている世界を内包しているのが、素晴らしいところ。
これは『Crispy!』以降ずっとついていた笹路プロデューサーから離れ、ほぼセルフプロデュースにした事がとても大きいだろう。世界観の面はより濃く、サウンド面はより自由になっている。
マサムネ自身は「『ハチミツ』はLed Zeppelin、『インディゴ地平線』はDeep Purple、『フェイクファー』はBlack Sabbath」と語っている。また「センチメンタル」、「スーパーノヴァ」、「ウィリー」などを指して「リフ主体の曲でやってみたかった」と語っている。
 
このアルバムで一貫している世界はただ一つ。
「澄んだ陽の光の中で、ただ君といたい。それが嘘であっても、偽物であっても構わない。君のフェイクの暖かさや温もりに沈んでいたい」…その想いだけだ。
馬鹿な事と思うだろうか。その場しのぎの、陳腐なものだろうか。
いや、これは一瞬の、儚くも強かな祈りだ。
フェイクでも受け入れていく事、欲望に耽溺する事。酷く歪んでいても、ある種の美しさすら感じる。
それを表すように、このアルバムはこんな言葉で締めくくられる。
≪柔らかな心持った/初めて君と出会った≫
そして、この「フェイクでも構わない、それでも君のいる今が良い」という世界は、後にART-SCHOOLにも継承されている。

単純に聴けば、耳馴染みの良い、穏やかな光に包まれたアルバムだが、その内面はどうしようもなく儚く強かで歪んで綺麗で、そんな感情が蠢いている傑作なのだ。
個人的には『ハチミツ』から、このアルバムまでを中期スピッツと呼んでいる。
このアルバム以降、B面集『花鳥風月』をはさんで、フルアルバム『ハヤブサ』に進んでいくが、そこからはこの中期のテイストはあまり感じられない。このカラーを彼らが薄めていくことになるのは、ある"事件"によるのだが、それがどうあれ、このアルバムは中期の彼らが辿り着いた一つの境地だろう。
98年3月リリース(こうして見るとリリース時期もアルバムの雰囲気に合っている)。
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『インディゴ地平線』



 大ヒット作となった前作『ハチミツ』の後に続くのは、多くの批評家や昔からのファンから「原点回帰」的と称された、この『インディゴ地平線』だ。

全体的に見れば、中期に入ったスピッツが「現実」を直視はせずとも、どうにか目だけはそらさないでおこうとして見たそれの何気ないページに記された倦怠や憂鬱といった感じだろうか。既に、『惑星のかけら』の宇宙にまで飛んでいくようなスペーシーなまで爆裂に飛ぶこともなく、かと言って『空の飛び方』や『ハチミツ』のようなガーリッシュな男の子のメルヘンワールドでもなくなり、「飛ぶこと」に固執しすぎなくなった彼らは、どうしたかと言うと現実世界にある自然や人工的な景色の果てにもう一度、冷静に目を向けたのである。

こういう訳で「原点回帰」かと言うと、そうでもない。
なぜなら、ここには1st『スピッツ』で見られた不気味な擬音もないし、超初期に見られた過剰なまでの「僕」の主観もない。あるのは、タイトルトラックのように、「地平線の果てのここで、どこにも行けず途方もなく立ち尽くす僕たち」である。もう一度、言うが、立ち尽くす「僕」ではなく「僕たち」であるところが超初期との決定的な違いだ。だから、ここには「夕陽が笑う、君が笑う」から「君」もいるし「街道沿いのロイホ」には「ナナ」ちゃんもいる。
でも彼らはその景色に染まり多角的な広がりは見られない。そんな景色をただ僕は眺めている、といった感じだろうか。ここには過剰な「僕」もないし、鳥獣戯画の歓喜もないし、メルヘン男子の空想も大きく薄れはするけれど、まだ捨て切れない希望の目とそれに映る「君」がいる。前作『ハチミツ』が森ガール的だとすれば、こちらはだいぶん都会に出て来た感じがする。それでも「僕」の頭の中にはメルヘンではないにしろ、どこか「ここ」とは違う快楽があって、それを抱え込んだまま途方もなく歩いている感覚がする。


この感覚は次作の『フェイクファー』でプロデューサーからも離れ、さらに深化する(と言う訳で「原点回帰」という言葉をスピッツに敢えて使うならば次作か次々作の方が良いのでは、と思う。実際に超初期の盤と肩を並べるかという完成度だと評価しているファンもいる(自分のことです。苦笑)。)。それについては当該項を見ていただきたいが、次作も<<偽りの海で>>どこに向かうのかは分からないけれど<<箱の外へ>>としているのに対して、このアルバムは、まだ嘘だとか本当だとかは決めかねている感じもする。とにかく、今自分の目の前で起こっている景色を引き受け「たい」といった漠然な思いでとどまっている。だからこそ、青の果てのような秀逸なタイトルトラックも生まれ得たのだ。

地味ながらも、『ハチミツ』と『フェイクファー』という大傑作を結ぶのに欠かせなかったアルバム。
個人的には、この小2の頃にこのアルバムを初めて聴いたことでスピッツの世界に入ったので、自分の主観的基準が(最早スピッツを超えて音楽も超えて色々な物事を捉える上での)本作にあるので、どうしても客観的に見辛いが、どうにか捉えるならそんなところだろうか。

96年9月リリース。
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『ハチミツ』

スピッツ,草野正宗,笹路正徳
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
自他共に認め、商業的にも最も成功した世紀の名盤がこの『ハチミツ』。

前作で取り戻した超初期的な感覚を、これほどまでにないポップセンスでコーティング。もちろん、ところどころに毒を入れることは忘れずに、気がつけばスピッツの虜にさせるトリックも健在。

折りしも、Flipper's Guitarの余韻が残る渋谷系全盛の時代とも共振してスタイリッシュながらよく見ると禍々しいPVやどこか歪なアートワークも作品の内容と相まって伝わってくる。

タイトルに関してマサムネはROCKIN ON誌のインタビューで、「『溶け合う』と『飛ぶ』が2大キーワードで前作は『飛ぶ』の色が濃かったから、今回は『溶け合う』で」としている。

このアルバムが今までのスピッツのそれと決定的に違うのは、一人遊びや妄想の延長線上に、本当の『君』が存在することだ。何もない虚空を見つめた一人遊びの先に、できるならば、君と出会いたいと言う祈りが存在すること。これこそが、妄想青年、草野マサムネ変革の時期であると同時にスピッツと言うバンドの脱皮の時期であることが明確に分かる。

そんなアティテュードを示すかのように、このアルバムはこんな一節から始まる。
<<一人空しくビスケットの/しけってる日々を経て/出会った君が初めての/心さらけ出せる>>

これらの変化に対してテツヤは「マサムネは恋人第一主義だから恋人が変わったのがデカい」と冗談臭く話していたが、あながち間違ってはないだろう。


しかし、それでもスピッツの草野マサムネの苦悩は終わらない。
妄想を通り越して生身の君に出会ったとしても、思い通りにはいかないし、絡まっても虚しいし、生身だからこそ何も伝わらない、どこにも届かない…そう言った切なさや落胆の影がそこかしこに見受けられる。
ちなみにマサムネ自身は宝島誌のインタビューにおいて「やっと手を繋げるぐらいのカップルが公園を歩いていたとしても、周りに蝶々なんて飛んでなくて、猫の死体がすぐそばに転がっていたりとか。そういうのが日常でしょ、本当は。そこをさらっと表現できた」と語っている。このポップなメルヘンと残酷なセンシティヴィティが入り交じるアルバムに対して、まさに言い得て妙だ。

しかし、それでもスピッツは生身の『君』と出会う覚悟は決めたのだ。


だからこそ、ここから始まる…始めるのだ、と言うエヴァーグリーンな名盤。


今から振り返ると、これ以降、『インディゴ地平線』、『フェイクファー』と澄み渡りながらも、切り刻まれるくらいの残酷な切なさの世界を描く事になるスピッツの入り口とも解釈できる。どの切り口でこの作品を見つけようが、「転換」の名盤なのだ。
このBlogでは本作から『フェイクファー』までを中期としている。

95年9月リリース。
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『空の飛び方』

スピッツ
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
スピッツが過渡期にあることがまじまじと伝わってくる5th。

前作のポップ宣言も不発に終わり、超初期の壊れていく自我としての自分と潜在的にポップを求める自分にどう折り合いをつけて進んでいくかを模索していた当時。必然ではあるが、やはり奇跡的なアルバム『ハチミツ』のプレリュードであると考えて良いだろう。

ポップながら、超初期に見られた毒を取り戻し、よく考えれば禍々しい世界観である、と言う本来のスピッツに立ち返りながらも開けていく過程がうまく表されている。


中期のスピッツの大前提となる「世界に歪められている僕」と「それを救ってくれる君」という図式は既にこの時期から垣間見える。
壊されて、失って、歪んでいく僕と、ただただ一緒に堕ちて行くのではなく、救おうと献身してくれと願う退廃的な世界観をもって、日本のロックシーンはもちろんポップシーンまでをも席巻してしまったスピッツの秘訣はここにあるのかも知れない。



この時期の草野マサムネはROCKIN'ON JAPAN誌において、『俺が歌を作るテーマは「セックスと死」だけなんです』と公言している。

この発言は後にART-SCHOOL木下を惹きつけるほどの言葉だった。

セックスと死、それらに対して名状し難い畏敬の念をただただ祈り、歌うことで草野マサムネは歪みながらも極上のポップソングを体得することになる。

タイトルも秀逸で『空の飛び方』と言う、主観丸出しの方法論で攻めの姿勢が全面に出ている(ちなみに「空もとべるはず」の項でも書いているが、マサムネは単純に空を飛ぶというニュアンスではなく、「幽体離脱して曼荼羅の世界に行くような」とドラッギーな雰囲気を示唆している)。
フェチズムと変態的ポップソングに満ちたこのアルバムがどう聴かれるのか。

94年9月リリース。


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『Crispy!』

スピッツ
ユニバーサルJ
(2002-10-16)

 
超、ではなく初期に入ったスピッツの4thアルバム。

語弊を恐れずに言えば、このアルバムは賛否両論、むしろやや否の方が多いアルバムとも言えるだろうか。

前作までのセールス的不振に切迫感を募らせていたスピッツはあえてオルタナティヴを精神性だけに残したまま、大胆にポップスを作り上げようとした(本人の言を直接言うとしたら「売れようと思った」)。結果的には外部からプロデューサーを招集したこともあり、今までのスピッツとは決定的に違うカラーのアルバムになった。

では、なぜこのアルバムが評価が分かれるどころか、むしろ否定的に解されたのか。
それは、やはりどこかで「無理している感」が出てしまっているからだろう。
確かに草野マサムネは、元々、偏執的オルタナ感と宇宙に届くポップス感を同時に持ちうる存在だったが、明らかに今作は後者を打ち出しすぎて不恰好になってしまっている。

次作以降、オルタナ感とポップ感を再構築し、世紀の名盤『ハチミツ』とそれに連なる『インディゴ地平線』や『フェイクファー』と言ったスピッツ流の健全なサウンドが出来上がるわけだが、その過程を今から考えるとやはり、このアルバムは不健全だ。確かに毒がないとは言えない、しかし、このポップ感はシラフじゃない。それがどこか不均等なイメージを思わせるのかも知れない。

マサムネは当時のインタビューで「前作で鬱屈したマイノリティに光を当てることはし切った。だから今作ではマイノリティの大群で勝利宣言を打ち出す」と語ったが、残念ながら、今までのファンの不信感も抱かせることになりセールスは相変わらず振るわなかった。


しかし、ここまで悪評に近いことを書き連ねたが、このアルバムが「失敗作」であるとは全く思わない。
むしろ、このアルバムが無ければ確実に『ハチミツ』は存在しなかった。
もちろん曲が良くも悪くもやはりポップすぎと言うのを、良い意味で解釈すれば、ここまで多幸感に溢れたアルバムはない(と言ってもシラフじゃなくて、ジャケのカラーリングみたいにエクスタシーか何かがキマっている感じさえある)。ホーンセクションも合わせて楽しめる人も少なくないのではないだろうか(とは言え、「ミスチルみたいな『良質ポップバンド』として括られたくはない」とも発言している)。

ジャケットは表はスピッツで唯一、メンバー(草野マサムネ)が写っているが、ヒッピー風のメイクを施しているので、そうとは見えない。赤・黄・青の原色をふんだんに使った全体的なカラーは、『名前をつけてやる』とは全く違ったドラッギーな雰囲気を表している。内ジャケはLSDが全盛だった60'sヒッピー文化を想起させるものだ。個人的には盤面が結構ポップ(ドラッグのカプセルみたいでもある。笑)で可愛いのでそこも好きだ。


確かに、どこかコケてる感は否めないが、失敗作と決め付けるのは大きな間違いだ。

93年9月リリース。
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