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(勝手に)ART-SCHOOLやSPITZやGRAPEVINEの楽曲を全曲解説するBLOGです。
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はじめに(当ブログをご覧下さる上での注意事項などなど)

 
「はじめに」(13/5/11最終更新)
・この全曲解説は、現在はスピッツとGRAPEVINEに筆力が傾いていますが、元々は音楽の物書きになる前からのただのART-SCHOOLへの熱愛が高じて始めたものですので、あくまで「(勝手に)」がキーポイントです。彼らの音楽から様々な他の音楽、文学そして映画などにリンクできるように、また自分が彼らを聴いて感じた所感をしたためようと思い、作りました。

・スピッツ、ART、VINE全て大体は過去の音楽誌(とか研究論文)などのインタビューや単行本、音楽情報サイト、Twitterなど(詳しくは私のプロフィールのページをご覧下さい)から得た情報ですが、どうしても独断が先立ってるところがありますのでご了承を。

・主にARTなどの引用ネタは様々な音楽を聴いていく上で偶然出会って気づいた物が多いので、少し独断によって、こじつけてる部分もあると思いますが、確証が少なくとも、できるだけ近いものは挙げようの精神で挙げております。
・ご覧いただければ分かるのですが、スピッツとVINEでは前半部分に長いイントロダクションを、ARTでは(勝手に解説の性質が違うので)短いイントロダクションを挟んでいます。全曲解説からご覧くださる方はスピッツの場合、「続きを読む」をクリックして下さい。

・自分が書かせていただいたスピッツ『とげマリーナ』ツアーのライヴレポートがCOOKIE SCENEという雑誌のウェブに掲載されました。宜しければこちらもご覧になってみて下さい。ほかART-SCHOOLやスピッツ、GRAPEVINEの記事が幾つかのメディアに掲載されましたが、こちらのリンクはもう少々お待ち下さい。
http://cookiescene.jp/2011/08/-at-2011-7-15.php

・まあ自己満足なところが大きいので、適当にゆるーりと見て頂ければ。
(・当初はできるだけいただいたコメントも返信させていただこうかと思っていましたが、思っているように時間がとれず…都合のつき次第、一斉にで申し訳ないですがお返事したいと思います。)

・できれば当ブログ主のプロフィールページもご覧いただければさらに嬉しいです。恐縮ですが…

(・この「はじめに」の記事は当ブログをご覧いただく上での注意事項のようなものなので、常に真上に表示されるように設定しております。)
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New!!!『ハヤブサ』

スピッツ,スピッツ,草野正宗,石田小吉
ポリドール
(2000-07-26)

 
切り刻まれるくらい残酷なまでのセンチメンタル、世界に歪まされていく僕とそれを救ってくれる君、一瞬の嘘とそれへの耽溺…中期スピッツは、名盤『ハチミツ』〜『フェイクファー』にかけて徹底して、それらの瑞々しい感性を研ぎすまし、自分たちの方法論を確立すると同時にセールス的な成功を獲得することにも成功した。

その上で、この『ハヤブサ』からは、それを超えて近代スピッツの幕開けである。
…はずなのだが、そのサウンドも歌詞も中期で凝縮してきたエッセンスとは明らかに毛色が違うものが提示されたのも、またこの『ハヤブサ』だった。

前作にあたる『フェイクファー』から約2年後にあたる『ハヤブサ』のリリースまでにスピッツの周辺は多くの環境が変化した(この期間、全くの空白ではなくミニアルバムでもシングルでもない、と銘打ってリリースした「99ep」、前記事にも書いたB面集第一弾『花鳥風月』、そしてバンド初のベストアルバム?『RECYCLE』がリリースされていた)。
それはグッドなものからバッドなものまでとても幅が広く、その変化の中でスピッツというバンドは、一度死んで蘇生した、とも言える(事実、単行本『旅の途中』でもイントロダクションで、そのように語られている)。



彼らが迎えた非常に多くの変化の中で特に大きかったのは以下の3点だ(ここでは楽曲解説と離れすぎないように絞ったが、その期間の詳細は単行本『旅の途中』や別冊宝島誌36に詳しい)。

1.現在でもスピッツの5人めのメンバーとも言えるキーボーディストのクージーとの出会い
→その成果が早速「99ep」としてリリースされた(収録曲3曲は、後にB面曲集代2弾『色色衣』に収録されたので、解説もその際に)。これを期にマサムネは「売れるか売れないか」といった彼が初期から捕われてしまっていたセールス的にどうか、という視点から逃れたセッションが多く行われることになった(その多くは後にシングルのB面に配される曲になった=現在では『色色衣』から聴くことができる)。とは言え、マサムネはこれらの曲を「どこか中途半端だった」とも語ってもいる。


2.レコーディング環境と作品の感触への違和感と試行錯誤
→『インディゴ地平線』よりCDとしての自分たちの作品が、あまりにローファイすぎてハリがないと考えていた4人は自分たちの望む出音としてのサウンドに近づける(マサムネ曰く、「耳に飛び込むような音」「スタジオで鳴ってるそのままの感じ」、田村曰く「『惑星のかけら』みたいなグランジな音と切ないリヴァーヴ感」「ラウドなロック感をそのままに」、崎ちゃん曰く、「細くない大音量のドラム」が欲しかったと『旅の途中』で書いている。それらを踏まえテツヤは同書にて「スピッツの4人は元々ギター主体のバンドが好きな4人が集まったから特に(ギターの)"歪み"へのこだわりが強かった」としている。どの意見も、彼らの頭で鳴ってほしい音と実際の作品の音が乖離してしまっていたことへの懸念だ。全員に共通するのは、とかく「迫力の無さ」への不満だった)ために、レコーディング環境を変えようと、楽曲単位でもエンジニアを変えレコーディングスタジオ自体も変え、初めての海外(米国、LAやマイアミにて)でのレコーディング・ミキシングも経験した。
柔軟に環境を変えたことで、場数も踏み、作品は(一進一退の一面もあったものの)完成するたびに彼らの望むサウンドに確実に近くなってきた。


3.メンバーたち当人の意思に反した名目上のベスト盤のリリース
→1stアルバム『スピッツ』から、彼らは自分たちの作品リリースについてかなりポリシーを持ってきていた。その一つはジャケットにメンバーを映さない、だった(『Crispy!』除く。とは言ってもあれも、まずマサムネだと初見では分かり辛いが)。そのポリシーの中でも大きかったことの一つは、『花鳥風月』の項にも書いた「ベストアルバムのリリースは解散の時」だった。
が、メンバーたちが2のように、レコーディングに頭を抱えながらも没頭している時にレコード会社からベスト盤のリリースをメンバー自身にも一方的に「決定事項として告知された」。
彼らが「自分たちのベストアルバムのリリースのアナウンスを自分たち自身が聞かされた」時に直感的に思った、それぞれの感情は『旅の途中』から抜粋すると、
田村:正直カチンときた(中略)ベスト盤ブームに対するアンチテーゼで『花鳥風月』を出したのに、俺たちがテーゼの方になってどうする!
テツヤ:(ベストアルバムは解散の時という)発言したことと違うことををするのは格好悪い。
崎ちゃん:そんなことがあるのか。メンバーの意思と違うところでそう言う話が動くのか。
マサムネ:正直、拍子抜けした。スピッツをとりまく音楽ビジネスの状況を見ていれば「そういうこともあるかも」とは思っていたから。(中略)「ベスト盤を出すのは解散するとき」と言ってたから、格好悪いなあと思った。
こう列挙すると田村が特に怒りを露にしていたように見えるが(マサムネの言では実際にメンバーの中で最も怒っていた、とのこと)、『花鳥風月』に際して自分たちがした、シーンに対しての宣戦布告的なアナウンスが嘘になってしまうという思いは、4人で共通していた。
ファンにベストの発売がスピッツの意思とは無関係であると伝えることを前提として、「最低限の責任」としてタイトル、選曲、ジャケットデザイン、マスタリングに立ち会うこととなった。
リリースされたベスト盤、タイトルは『RECYCLE』(使い回し)、選曲はセルアウトされた自分たちで認める「世間での認知度が高い曲だけ」を選ぶという適当なもの、ジャケットは太極図が描かれた(彼らお得意の「意味のないようにも意味を見いだせそうにも見せる」という意匠さえも排した)本当に意味のない質素なプリントの上に「SPITZ RECYCLE Greatest Hits of ZTIPS」と自らを鏡文字にすることで「背信」の意を明確に見せるなど、自虐と言うよりも、自嘲的とまでに映る痛々しいリリースとなった。
リリース後も、公式サイトでも当初の予定通りファンにアルバムのリリースは不本意であるとアナウンス、FC会報やラジオでは「(自分たちの意向が無視されたアルバムなので)買わなくていい」とまで宣うという徹底ぶり。
このリリースそのもので不信感を抱いたファンもいれば、痛々しいまでの露骨なアルバム内容とプロモーションで「大人げない」と揶揄したファンもいた。




…と言ったような、一連の流れの中で試行錯誤の中から大きな展望と同時に大きな失意を通過してリリースされたのが、この『ハヤブサ』だ。

なので、当然のごとく、彼らのスタンスを改めて見せるためにも、またレコーディング試行錯誤の末の大きな展望の成果を見せるためにも、作風は中期までとは異なり、暴力的なまでに野心が見えて、エッジの立ったものになっている。
『惑星のかけら』が妄想青年のグランジアルバムならば、この『ハヤブサ』は現実を見据えた青年が一瞬の刹那の時に身を委ねたかのようなオルタナティヴなアルバム。
実際、現時点で見てもここまでの彼らのキャリアで、オルタナティヴ「ロック」色の強い作品はこのアルバムが随一だろう。


試行錯誤の末に体得した、今聴いてもどの曲もプレイボタンを押した途端に耳の奥まで飛び込んでくるかのような迫力のあるサウンド(それは「ジュテーム?」のような簡素な曲でも同じで、それまでの弾き語りスタイルの曲よりも、圧倒的にクリアに聴こえる)は、どれも最早、昔の妄想青年のものでも、空想好きのキュート男子でもなく、凛々しく立とう「と頑張っている」力強いものだ。

今聴き返してみれば、このアルバムもまた当時の急激ながらも意志をもった彼らの変革の時期だからか『Crispy!』同様に過渡期ゆえのまとまりのなさも思わせるが、それよりもこのハードなオルタナ感を前面に見せつつも肝心のポップセンスは決して手放していないという意味では『Crispy!』のような過渡期ゆえの散漫さは見られない(とは言え、難しいところだ。『Crispy!』はキメちゃってるくらいまでに振り切ってポップなアルバムになっているのに対して、『ハヤブサ』はかなりロック寄りになっているが、当時の切迫していた『Crispy!』の無理しちゃってる感もイケる人からすれば、この『ハヤブサ』は逆ベクトルでありながら手慣れているようにも聴こえてしまうかも知れない)。

プロデューサーに、初めて同年代のex-Spiral Lifeの石田ショーチキを起用したのも、いつもはポップセンスを輝かせるのに、「ハードに演るならいっそぶっ壊すくらいハードにやっちゃえば!?」なんて発言もしてしまえる石田の大胆ながらも繊細なバランス感覚に惹かれて野心の実現を共にするためである。

サウンドは全体的にポップながらも、どのアルバムよりも野心的なエッジが立ったものであるが、歌詞だけを抽出してみると実は『フェイクファー』からめちゃくちゃ大きな変化が生まれている訳ではなく、むしろ『フェイクファー』の「フェイクでも受け入れ耽溺し切る無邪気に切り裂かれるまでの偽物の世界」があったからこそ、と言えるものになっている。
このアルバムは全体に見れば、先にも書いた様に、「一瞬の刹那に身を委ね、その度々に溺れながらも、いつかはその場所を離れなくてはならない」ことを自覚しているような今までに見られなかった構成になっている。一瞬の刹那に身を委ねきること、溺れきることは、それぞれ初期や中期にも見られたが、このアルバムはさらにその先、どこか没入した後の「醒めた感覚」も持っている。
この感覚はサウンドのまとまりも踏まえて次作『三日月ロック』に昇華されているが、ここでは、ぶきっちょゆえのリアリティとフェイクを交差する言葉が光るのが、偶然ながらも面白いところでもある。

ジャケットはスピッツのオリジナルアルバムとしては初の、歌詞カードを小冊子風に分離した構造をしており、これまた初の縦に見るジャケット。そのジャケットの方は1stの頃からあった「和」の感覚を前面に押し出した、アルバムの内容も相まって暗闇の中で一瞬の雅に身を委ねているかのような幻想的な感覚さえにじみ出てくるもの(『ハヤブサ』、がジャケットでは「隼」と漢字表記なのも和を演出している)。


ジャケットのついでと言ってしまえば難だが、たまには機材的な話でも曲解説の補助的に書いてみようと思う。
マサムネはこの『ハヤブサ』期から、ムスタングを大々的にライブ、PV、レコーディングでフィーチャーしている(Fenderのものではない。Fenderのムスタングは次作の『三日月ロック』期にPVで使われる)。現在はムスタングの形をしたサイクロン(サイクロンもムスタングの延長線上で作られたギターであるから非常によく似たシェイプをしているが)形態のギターをメインにしてムスタングはサブになっているが、このアルバムではムスタング特有のジャキッとしたシングルコイルの音色が随所で聴かれる。
「じゃじゃ馬」「おてんば娘」という名前が表す通り、スチューデントモデルのギターとして登場したムスタングは(サイクロンもスチューデントモデルの一つ)、そのショートスケールの小柄な見た目に反して、かなり癖が強い割に操作性が低く、暴れ回るようなサウンドが欠点であると同時に、最上の魅力でもあるギターだが、マサムネはこのアルバムでそのムスタングの暴れ狂うようにキュートにギャンギャン鳴り響く音色に「乗りこなす」ことに成功している。
ので、ムスタングファンは、このアルバムを一つのムスタングが光るアルバムとして参考にしてみてはどうだろうか(個人的にはベースプレイヤーだった高校時代の途中からギターも買うことにして、最初のギターから今までずっとムスタングをメイン・ギターにしているが、今でもこのアルバムはムスタングの音作りに迷ったら聴き返している。ちなみに個人的なサブギターはマサムネとは逆で、サイクロンです…)。このムスタングを導入したこともあえて荒れ狂う攻撃的なサウンドとしての野心の表れにも思える。

テツヤは変わらずレスポールがメインだが、この時期のテツヤは個人的には、あえて機材よりも彼自身のルックスに注目したい。笑
「メモリーズ」や「放浪カモメはどこまでも」のPVでも見られるが、ウルフを通り越してトサカのようになった、まっ金髪のモヒカンカットに前髪をなぜか一部分だけ残しており、そこをワックスか何かでガチガチに固めているのか、文字通り「鬼のような形相」を呈している。それにも関わらず、ギターは相変わらず繊細で緻密なプレイに徹しており、今回暴れるギターはマサムネのムスタングに任せている面も大きいのがまた、テツヤ「らしい」。

田村は移り気のしやすいベーシストだが、このアルバムではリッケンベースをフィーチャーしている。The WhoのJohn Entwistleに影響を受けた田村らしく、暴虐なまでに暴れ回るウワモノの中をメロディアスなベースでマサムネのヴォーカルを引き立てている様がクールだ。

崎ちゃんはこの時期のツアーにおいて、バスドラムにドデカく「隼」と描かれたドラムセットでプレイしていた。その実直なスタイルと「メモリーズ・カスタム」のように振り切った爆発的なドラミングがオーディエンスをアジテイトするのに成功していたことは言うまでもない。


一瞬の刹那の雅に浸りつつ、どこか醒めた彼らの感性は『三日月ロック』で洗練される前にここで無骨に出されている。彼らも、ここまでくると、ナードロックンローラーではなくクールなロッカーなのだ(と「言うフリ」くらいにしているところが彼ららしい。笑)


2000年7月リリース。
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『オーロラになれなかった人のために』(Rewrite)

 
現時点で、スピッツ唯一のミニ・アルバム(e.p.を除いた場合)。

今でも賛否両論とも言われる、オーケストラを大々的にフィーチャーして草野マサムネのソロのようなテイストに仕上げた、本人曰く「スペシャル・ミニ・アルバム」。

前作『名前をつけてやる』から僅か5ヶ月でレコーディングされたこともあり、世界観としては前作をある程度、引き継いだ感触であり、オーケストラをしたがえたからと言って、殊更に明るくなったり、無闇に壮大になったりしているワケではない。
むしろ、詞世界の歪つな感じはいまだに色濃く出ている(「ナイフ」などは特にそれが秀逸)。

そもそも、『オーロラになれなかった人のために』と言うタイトルからして、退廃的な感覚を打ち出している。
別冊宝島誌36によると「アラスカの北極圏に住む先住民の『死んだ人はオーロラになる』と言う言い伝えから採ったタイトル」であるとのこと。と、すると、さしずめ、「死に切れなかった人のために」といったところか。相変わらず、後ろ向きでダウナーな世界を引きずっている。


オーケストラを取り入れた背景にはプログレへの憧憬が少なからずあった(マサムネいわく「お茶の間プログレを目指した」とのこと)と言う。しかし、全曲プログレ的と言うよりは、セカンド・サマー・オブ・ラブ的なグルーヴィーな楽曲まである。単行本『旅の途中』によると田村はアレンジにThe Who『四重人格』を引き合いに出してオーダーしていたとのこと。

内ジャケのアー写はThe Smithsを意識したものか。

次作『惑星のかけら』は打って変わって、あくまで4人のバンドサウンドを大前提にしたグランジ/オルタナのアルバムを打ち立てたのも納得できる、良くも悪くも広がりすぎたアルバム。

92年4月リリース(『名前をつけてやる』から半年以内)。


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『Here』

GRAPEVINE
ポニーキャニオン
(2000-03-15)

 
『Lifetime』で『退屈の花』畑から抜け出て、日常それそのものを見据えたGRAPEVINEは、セールス的な後押しも加わって、より地に足をつけて初期の彼らの確固たるスタイルを確立しようとした。

そんな中でリリースされた3rdアルバム『Here』は、タイトルが示すように『Lifetime』や「Lifework」的な日常それそものから、さらに目を凝らした当時の彼らにとっての(有り体に言ったところの)「今ここ」に目を向けたもの。

早くもここでは初期のVINEの一つの完成系とも言えそうな感覚がみられる。
『覚醒』や『退屈の花』で見られた、気怠い倦怠と溺れきることも捨て去ることもできないまま絡まる関係を通り越して、時代への澄んだ瞳はそのまま、今ここを認めていくといったように、本当に大人になっていくための通過儀礼のような作風で、改めて聴き返しても彼らのキャリアの中で最も「安定して優しい」アルバムになっている。

こう書いてみるとVINE独特のシニカルなスタイルや毒づく田中の目線が薄れたのではないかと思ってしまいそうだが、その心配も全くなく、相変わらず秀逸な審査眼で達観したような目線はあるし、むしろ情欲の濃さや強度はより濃くなっている。しかしそれらを、あたかも達観してすまし顔で歌ってしまいそうなデビュー当初のひっくり返った諦観のために使うことでなく、「ここ」を祝福するためにエッセンスを抽出しているかのようだ。

それらを踏まえて、改めて収録曲を眺めてみれば、彼らにしてはそれまで見られることのなかったエクスキューズなしの応援を込めたラブソング「想うということ」があるかと思えば、その真裏とも言えるようなまでにセクシャルな名曲「リトル・ガール・トリートメント」があったり、一聴すると日々の憂愁を優しく包み込むようでいて歌詞を見ると隠語に満ちたアンビバレントな「ダイヤグラム」、後にも繋がる田中の露骨な毒づきが見られる「Scare」、(田中のいうところの)ルーツ・ロックやブルース、ファンクなどに影響を受けてきた彼らの憧れをそのままファニーに歌った「南行き」、そして今まで立ってきた「ここ」をゆっくりとでもしっかり肯定して受け止めていくような「here」と一曲ごとの密度は非常に濃い曲が並んでいるにも関わらず、アルバム全体を通して、不思議なまとまりがある。
古い考え方かも知れないが、もし一つの作品を陰と陽の二分法で分けるならば、「陰のまとまり」が秀逸なのが後の『イデアの水槽』だとすると、「陽のまとまり」が秀逸なのがこの『Here』だろう。


このまとまりの良さには『Lifework』の成功を受けて上昇気流に乗って、なあなあに曲作りをしていたバンドに対して田中と西原が待ったをかけて、バンドが結成してから初めてちゃんとメンバーで話し合ってアルバムコンセプトを決めたという事実がある。
当時の田中はRO誌で2万字インタビューを受けているが、その際、コンセプトの一つとして「前向きな気分なんですけど…『前向きにやるしかないからそうやってる』みたいなことですよ。素直に『前向きだぜ!』っていうんじゃない。『俺のこの気持ち悪いのは一体なんだ!』っていう感じですよね(笑)『どうせ誰も教えてくれへんやろうし、これも俺が答え出さなあかんねん!』っていう、そういう新しい方向」に向かおうとしたと語っている。
陽とは言えど、田中の「何にでも責任をとらなければならない」という思いありきで、それでも諸々を受け入れた上でのアルバムになっているので、妙な説得力とまとまりがあるかも知れない。
実際に聴いてみると現実に直面しているがゆえのフラストレーションがむしろ今までにないくらい爆発している曲も多い。

もう一つのコンセプトは『覚醒』の項でも書いたような「アルバムに必ず精液と愛液の匂いを介在させること」。その言葉の通り、この作品の形容としての「新たにクールなGRAPEVINE」と言う言葉はエロティックな響きを持っているし、実際に今までよりも艶かしい曲が多い。


ジャケットはどこか異国のストリートのようなところで撮影された無骨なもので、歌詞カードに記載された歌詞は意図的に改行を一切使わず、文節ごとに「/」記号を使って区切るのみで、一曲通して言葉を羅列するという実験的なスタイル(ちなみにスピッツの頃から、当ブログで使っていた歌詞を引用する時のスタイルは、実はこの『Here』の歌詞カードのスタイルのオマージュです)。正直に言って歌詞が読み辛いが、当時の田中は「自分の歌詞から何か感じてメッセージとして受け取ってほしくない。メッセージになったら責任がとれない」と語っていたので意図して見辛くしているのかも知れない。


何はともあれ、このアルバムで初期VINEは幸福に「ここ」を受け止めることになる…が、次作『Circulator』からは一転。これまでの方法論から一旦距離を置いて新たなスタイルを模索していくことになる。それは長らく共闘してきたメンバーの不在も大きく影響しているかも知れない。


00年3月リリース。
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『Lifetime』

GRAPEVINE
ポニーキャニオン
(1999-05-19)


名実ともにVINEの黄金期でありセールス的にも最もヒットしたのが、この2ndアルバム『Lifetime』。

前作で倦怠と絡まる関係の辟易を開花させた『退屈の花』の地平から、彼らが進んだ先で歌うのは、『Lifetime』というタイトルが示す(直訳すると、「生涯」。このタイトルは田中による発案で決定した)通り、「日常」それそのもの。

『退屈の花』では、気怠く終わる事のない縺れる関係と情欲さえ諦観のように捉えたような、空虚なシニシズムも持っていた彼らだが、今作では前作のそれをシニカルにではなく、むしろ感情を込めて、コミットしている。
とは言え、もちろん、いつもの彼らのように、どこかでセクシャルな響きや名前を付けてしまえばたちまち壊れてしまう関係や感情などを鋭く指摘しつつ、憂いのブルーズで包み込む描く作風自体は変わっていない。

つまり、彼らの最もヒットした作品である、『Lifetime』は、スピッツの『ハチミツ』のように当初からある彼ら自体の在り方を変えることなく、より濃厚にした結果と言える。
しかし、『退屈の花』と大きく異なるのは繰り返すようでもあるが、田中の歌詞がシニシズムをより排した、日常そのものに退屈や諦観を乗り越えて感情をもってコミットしていることだ。例えば、ここでは『退屈の花』では半ば幻想的に思い返したりした昔の恋人や諦め半分で抱えていた「君」との関係がより現実味をもった上で、「向き合って」描かれている。さらに「光について」のように初めて、自分たちバンドの関係性を歌ったような曲もある。『退屈の花』からリアリズムをもって歌ってきた彼らだが、今作では、地に足が着いて、ただ淡々と過ぎ行く『Lifetime』を切り取ることに成功している。
なお、各音楽誌で後に語ったところを統合すると、恐らく田中はこのアルバムのリリースを前後にして結婚している(と思われる)。ここでは、バンドのプライベートに触れることは(楽曲解説とは離れるので)極力避けたいが、「Lifework」というGRAPEVINE流のマリッジ・ソングとも言える曲や『Lifetime』と題されたタイトルは、これに由来することも大きいだろう。既に彼らは『退屈の花』畑を抜け出し、『Lifetime』に直面しているのだ。


サウンド面でも、アルバム全体としての(田中のいうところの)ルーツ・ロックのエッセンスもそのまま、さらにダイナミックに哀愁の色で包み込んでおり、彼らの入門盤としても最適であると言えるくらい、各メンバーのそれぞれの楽曲の良さが存分に伝わってくる。

ジャケットは、高度経済成長期に建てられた欧米かぶれのホテルのような映画館のような建物の入り口で、カーテンがかかっており、既に閉館していることを示しているようだ(足下のところに置かれた大きなエフェクターケースのようなケースはショーケースの看板のように電飾になっており、「☆LIFETIME&LIVING?→1/4 GRAPEVINE」と光っている)。
この表ジャケットを見続けていると、そんな閉館した建物に恋人と潜り込んで、ひっそりと、ある一人の人間の生涯を映した映画を観に行っているような感覚に陥る。

その映画のタイトルはもちろん、『Lifetime』である。

99年5月リリース。
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『退屈の花』

GRAPEVINE,田中和将,ホッピー神山
ポニーキャニオン
(1998-05-20)

 
前作にあたるデビュー・ミニアルバム『覚醒』では、新人とは思えないほどの諦観とやるせない時間、そして浮き世に対する秀逸な審査眼を垣間みせたGRAPEVINEだが、このデビュー・アルバムでは、早くもその大人びた諦観と同時に無邪気さゆえの残酷さに、2人でどこにも飛び立てずに踞る時間や1人でただ相手を思いつつもそんな自分を自分で冷静に眺めているような冴えた時間を歌っている。

何と言ったってタイトルからもう秀逸だ。
『退屈の花』。
これは、デビュー初期の彼らのスタンスを表していると同時に、退屈と倦怠の花が咲き誇る様が、新人としてカウントできないのではないかと思わせるほどの色気を持っていることの証明でもあるようだ。

前作同様、ブルース、カントリー、ファンクといった米国南部の音楽に影響を受けたサウンドも、また玄人くさく花開いている。
またジャケットも彼らには珍しくヨーロッパ風の庭園を歩くメンバーと流れるような文字が花々の萌芽を思わせる。


その上で、このアルバムの素晴らしいところは、現時点で彼らのキャリアの中でも、アルバム中、ほぼ全編(広義の)セックスソングで展開されていることである。
しかし、セックスソングと言えど、彼らのそれは、例えば、スピッツが歌うような無邪気なグロテスクとそれを彩るキッチュな世界でも、ART-SCHOOLが歌うような厭世をも匂わせるような不器用でエロティシズムが増幅されるような世界でも、ない。彼ら、と言うよりも田中の歌うセックスソングは、「日常にある性」を歌っている。
一見すると、それは、普通のことかも知れない。
しかし、多くの日常のセックスがそうであるように、彼らはその内に潜む倦怠や怠惰、堕落といったものを、ロマンチックな言葉ではなく、ただ淡々と歌うのだ。ドラマティックな感覚や胸がキュッとなるような感覚で、歌われるセックスソングも多い中、彼らはどこにも到達しない2人の関係をデビュー早くも歌っているのが末恐ろしいようでもある(これもまた前作同様、オッサンくさいとも言えるが。笑)。
もちろん「君を待つ間」や「遠くの君へ」のような純粋なラブソングもあるので、全てが広義のセックスソングとは言えない(まあ「君を待つ間」は、本項でも書いているように性愛関係を超えた上でのラブソングとも言えるが)。


また、前作でもデビュー早々にして「浮気の曲」と明言化された「恋は泡」が収録されたが、このアルバムで歌われている多くの「2人の関係」も実は、正式な恋人同士とは言えない関係が多く描かれていることもまた、特筆すべきだろう。恋人がいるのにどこかで誰かについ惹かれているような関係や言葉にすればたちまち崩れてしまうような2人の関係、惹くでも惹かれるでも駆け引きとさえ言えないような関係、様々な関係が描写されるが、実はそれは「少女漫画のようにはいかない」リアリティをもった冴えない関係そのものでもある。

少女漫画、と書いたが、往年の少女漫画では(少なくとも自分が少女漫画を読み始めた00年代半ばのそれでは)よく恋に落ちる瞬間などに花びらが舞い散ったりするようなキュートな演出がなされることが多い。そこで面白いのは、「歪つな」あるいは「奇妙な」もしくは「(遠目に)セクシャルな」2人の関係を描いている、このアルバムもまた花びらが舞っていることだ。

しかし、それは少女漫画に描かれるような、恋の喜びの花ではない、ここに咲いているのは『退屈の花』である。

2人で溺れきることもできず、どんな身に絡まっても明日思う相手もわからず、また自分自身の気持ちさえも判然としないまま、関係は複雑になる。にも、関わらず複雑化した関係の無変化な日常は終わることなく続いていく。そして、その全てがセクシャルでありながら、その全てにどこかで飽き飽きして倦怠を抱いている諦観。それこそが、このアルバムで可憐に汚く凛と咲く『退屈の花』なのだ。

このアルバムについて、田中は『Here』をリリースした頃のインタビューで当時を振り返って、「(『Here』をリリースした)今でも、曲には精液や愛液の匂いは絶対に必要で。それって生きていることをそのまま歌えているってことじゃないですか。『退屈の花』はちょっと作り込みすぎたけど、その生の感覚を一番出せていると思う」といった発言をしている。

たしかに、このアルバムにはどこかで体液の匂いがある。しかし、それが暴力的に落とし込まれるのではなく、その前に自分自身とその関係に辟易し退屈している。それが主題になっているからこそグロテスクで聴きづらいアルバムにはなっていない。むしろ、ここでは「複雑に絡まる関係」をただ淡々と映しているからこそ、虚飾のないありのままの日常がポップに展開されるのだ。

デビュー早々、『退屈の花』を作り出してしまった彼らは次にどの地平を進むのだろうか。

98年5月リリース。ボーナストラックあり。
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『覚醒』

GRAPEVINE
ポニーキャニオン
(1997-09-19)

 
(1年ぶりに更新する機会を見つけられた当ブログ。ずっと全曲解説したくてたまらなかった、個人的にはスピッツやART-SCHOOLに並ぶくらい好きな邦楽アーティスト、GRAPEVINEを取り扱うことにした。改めてlast.fmを見てみると、最もScrobbleしているスピッツの9500再生に次いで、彼らは6500再生しているので、少なくともLast.fmを始めてからは邦楽で2番めに多く聴いてきたアーティストに個人的には、なる。パブリックで書かせていただいたライブレポやレビューも好評で個人的には何よりである。個人的には彼らを聴き始めたのは、中学2年生くらいの頃だっただろうか。オリジナル盤は『イデアの水槽』から聴きはじめたものだった。彼らの魅力については、これから存分に当ブログでも書いていきたいところです)
↑この()の文はある程度の時がきたら消します。


新人とは思えないくらいの練り上げられた楽曲のクオリティと文学的な歌詞、という触れ込みでデビューしたGRAPEVINEの全国デビューミニアルバム。

メジャーからのリリースでありながら(当時主流であった8・12cm)シングルでもフルアルバムでもなく、ミニアルバムでデビューしたのはシニカルな彼らならではのスタイルだ。

ART-SCHOOLやスピッツがそうであるように、彼らもまたデビュー当初から後に全面に発揮される個性的なスタイルをこの時点で既に確立しているように思える。その面で、田中は後のインタビューにおいては、「最初の3枚のアルバムまでの俺は死んだことにしてくれ」といった旨の発言をしていた時期もあったが、そういう訳にもいくまい。
ここには、デビュー初期の彼らの魅力が早くも噴出しているからだ。


通常のバンドとは異なり、メンバー全員が卓越した作曲センスを持つ事でも知られる彼らであるが、このデビュー・ミニアルバム全体としても、オリジナルメンバー全員分の曲が早速収録されていることは特筆すべきだろう。
これまた既に、それからの彼らのスタイルで確立される、渋くファンキーな曲はギターのアニキこと西川が、それをさらに青いメロディにしながらもシニカルな曲はリーダーこと西原が、アメリカ南部のブルーズ的な憂いのある冴え切った曲はフロントマンの田中が、そして彼らとは全く違ったベクトルで並のギターロックバンドでも決して真似することができないほどポップなギターロック曲をドラマーの亀井がしたためている。

当時の第二次テクノブームを通過したダンサンブルなサウンドやヴィジュアル系が流行っていた邦楽シーンからすれば、彼らのブルーズに満ちた楽曲のポップセンスは、デビュー当初からさぞや大人びて聴こえたことだろう(ある意味では、オッサン臭いとも言えるだろうが。笑)。
なお、同時期のデビューにはいわゆる「'97の世代」…NUMBER GIRL、SUPERCAR、くるり、中村一義と言った邦楽ロックのオルタナティヴな可能性を引き出したバンドがいる。
その中でもVINEは「'97の世代」としてでなく、これまた同時期にデビューしたTRICERATOPSと(今でもしばしば)比較されることが多いことからも、彼らの卓越した演奏技術や大人びた風格が評価されたことがうかがえる。


さて、歌詞の方は現在に至るまでと同様、田中が書いている。
これまた、新人とは思えないほど(しかも彼は、邦楽シーンとしては珍しく、メンバーの中で最年少のフロントマンである)大人びており、屈折しつつも世俗への鋭い審査眼と溢れ出る情欲を切ない言葉で切り取っていくという彼のスタイルの一つが早くも顔を覗かせている。
彼の作詞スタイルの多様性とその神髄は後に発揮されるものであるが、これもまたこの時点で既に根本のクオリティの高さと哀愁に満ちた個性が見え隠れしていて頼もしい。
この作風は次作『退屈の花』で早くもある種の開花を見せることとなる。



ジャケットはファースト・サマー・オブ・ラブ期のようなクラシックなサイケデリック風のイラスト。内ジャケは、ART-SCHOOLやスピッツも使ってきた写真を伸ばしつつ転写した作風のもの(浅学なものでこのエフェクトの名前は知りません…苦笑)。クレジットのところが反転しつつ、この転写技法(?)が使われており、ビジュアル的にも往年のサイケデリアを思い出させるようだ。

『覚醒』というタイトルに反してか、反しないでか、アップテンポで大胆な曲はなく、大人びたセンスが見られる。そう、既にこの時点から彼らのエッセンスは「覚醒」しているのだ。

今でも時に折りてライブでプレイされるのは、タイトルトラックの「覚醒」くらいだが、自分が高校生だった頃の10周年記念の野外音楽堂での公演では、このアルバムの再現を演ってみせたという(自分は残念ながら観に行けなかった。これには心から悔やまれる)。

1997年9月リリース。
(デビュー10周年記念復刻版として、B面集『OUTCAST』にも収録されたRolling Stonesから引用されたタイトルも渋い「TIME IS ON YOUR BACK」の初期デモ音源と次作『退屈の花』に収録された「君を待つ間」の初期音源が収録された2枚組として、再リリースされている。そちらはちょうど10年後の2007年9月リリース)

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『おるたな』

スピッツ
ユニバーサルJ
(2012-02-01)

 
2012年2月リリース。

『花鳥風月』、『色色衣』に続くB面集第3弾。
初回限定版には前2B面作と同様、ディレクターズノートが付いた紙ジャケになっている(前2作のそれとは違って今回は、竹内修氏一人によるもの)。


まさにポップ&オルタナティヴを地でいくスピッツのタイトル通り『おるたな』な一面(これは『花鳥風月』や『色色衣』でも同じ)で、言うまでもなく『とげまる』のタイトルを踏襲している。

B面集とは言え、前2作とは趣きが異なり、アマチュア時代やインディー時代の曲は収録されておらず、こちらは収録曲のおよそ半分がカヴァー曲になっている。
ディレクターズノートにも書いてあるが、スピッツは元々イベントなどでカヴァー曲を披露することは他のアーティストに比べると多い方であることは、スピッツ=ライヴバンドであると認識しているファンには周知の事実であったが、ライトなファンにはあまり知られていない事実だろう。ノートにあるようにチャットモンチーのカヴァー(「シャングリラ」)や(これはノートには書いてないが)Aerosmithのようなハードロックのカヴァーを披露することも多いスピッツだが、今作は「スピッツ」としてカヴァーしてきた公式音源を全て網羅している(「スピッツ」として、としたのは草野マサムネの個人名義では「木綿のハンカチーフ」もカヴァーしているからだ)。
(まあ逆に言えば、スピッツをB面、カヴァーともにコンプリートしてきたファン(自分のことです苦笑)にとっては新録曲が少ないようにも感じますが…苦笑)


そういった意味でスピッツ×Somebodyといった化学変化を楽しむことができ、オルタナでもあるが、やはりB面曲。
特に、『花鳥風月』や『色色衣』より圧倒的に曲順の流れが良く、雑多なカップリング曲が全体を通して一つのドラマのようにも聴こえる。サウンド的には『フェイクファー』のように、全体がバラバラな曲調にも関わらず全編通して聴いた時に感じられる妙な統一感こそが、このアルバムでスピッツが見せるオルタナティヴな部分だろう。
牧歌的な「リコリス」「テクテク」、エッジのたった「ラクガキ王国」「まもるさん」、カヴァー曲として非常に秀逸な「タイム・トラベル」「初恋に捧ぐ」、そしてこのアルバムで最も過虐性すら感じられる(これは一曲ずつの解説の時に述べたい)「さよなら大好きな人」〜「オケラ」の流れに至るまで曲調は共通項はほぼ無いにも関わらず、一枚のアルバムに入る必然性のようなものすら感じる。

また多くの曲のキーボーディストにクージーだけでなく、メレンゲのバックでも活躍している皆川真人を起用していることも注目したい。初恋の嵐の復帰ライヴでも度々共演しているメレンゲであるが、そのテイストをスピッツにも持ってきた(そもそもメレンゲはスピッツを陰陽に分けた時、陽の部分を特に際立たせたバンドであるという持論を自分はよく展開している。ちなみに陰の部分を際立たせたバンドは言うまでもなくART-SCHOOLだと思います)ことが、とびきりに切なく、しかし見えない傷跡としてたしかに残るというようなメレンゲのセンチメンタルを思わせるようだ。

全編を通した時に感じられる究極的なポップでありながらオルタナティヴな感覚は、やはり、未だにどのアーティストも到達し切れない高い点に至っている。

そう、スピッツはやはりオルタナティヴロックバンドなのだ。
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『とげまる』

スピッツ
A-hi Records
(2010-10-27)

 
現時点で、スピッツの最新作であり、現代スピッツの集大成的な名作。

『三日月ロック』以降のハイファイで躍動的なサウンドメイキング、『スーベニア』以降の現代的な邦楽ロックのフォーマットに沿いつつひねくれた曲構成に、中期、特に『インディゴ地平線』〜『フェイクファー』で見られた、澄んだ想いゆえの残酷で、純粋な世界観が乗せられている。

まずサウンド面では、『スーベニア』以降(兆候としては『三日月ロック』の時点で既)に見られた、どこか「若作りしている」とも揶揄されがちだった、アップビートな曲調をスピッツお得意の驚異的なポップセンスでコーティングすることにより、立体的で説得力のあるものになっている。一曲ずつ見ると、BUMP OF CHICKENやSTRAIGHTENER、100sにエレファントカシマシのようなテイストの曲も多いが、もちろん、それらの最新のシーンに追随するような形では無く、自らのメロディをもってうまく食い入っている野心さも見られて面白い。


しかし、それだけなら、この『とげまる』は名作にはなり得ないだろう。
なぜなら、このアルバムは、ここのところ、なりを潜めていた、彼らのフェイク性、嘘、そして、猛毒が隠されているだけでなく、それらが、純粋ゆえの毒であることが、いとも平然と歌われているからだ。
「ビギナー」と言う無垢な世界から始まり、「初恋クレイジー」の更に次の世界を思わせる「恋する凡人」へと繋がっていく最初の流れから見ると、力強い優秀なポップバンドであるが、「TRABANT」以降から、だんだんと「とげ」が露骨に見え始め、「えにし」でどんどん歪み、遂には「どんどどん」、「君は太陽」のラスト2曲では完全な背徳を体現している。

このアルバムは、<<ビギナーのまま/動き続けるよ>>という無垢な祈りから始まり、<<理想の世界じゃないけど/大丈夫そうなんで>>という歪んだフェイクに着地することに、最大の意味があるだろう。
そう言う意味では、ビギナーのまま、曲がっていく一人の人間を主人公にしたコンセプトアルバムのようにも見えてしまう。

マサムネはMUSICA誌において、この「とげ」を堂々と出しながらも「まる」も臆せずに出すスタイルは「昔からアングラ/サブカルに憧憬を抱いてる部分の俺をちょっと騙しつつやってた面もあってたけど、もう今回はサブカルに憧れる俺も納得するような感じになった」と豪語している。

純粋であるが故に、それから逃れられず、純粋なまま崩れて、溺れていく。
それは、中期スピッツが描いていた世界観でありながら、今、この時代で、このサウンドで鳴らされることに奇妙な説得力を持っている。
まさに、「とげ」と「まる」が共存する世界。
「まる」が無ければ、「とげ」はなく、「とげ」のない「まる」もまた、「まる」でない。


内ジャケは『三日月ロック』同様に、ザラッとした手触りのもので、それも、昔からの世界を継承していることを思わせる。

2010年10月リリース。
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『花鳥風月』

スピッツ,草野正宗,白井良明,笹路正徳,棚谷祐一,土方隆行,クジヒロコ
ポリドール
(1999-03-25)

 
『色色衣』の前のスピッツB面集第一弾が、この『花鳥風月』。

既に8枚のアルバムをリリースしてきたスピッツにベストアルバムを…というむきもあったレコード会社の意向に反して、敢えてB面集というリリース形態を取ったのは、例えば前作の「運命の人」で、横文字を排除したような当時のシーンへのささやかなアンチテーゼであったという(後に叶わないことになってしまったが、「ベストアルバムを出すときは解散する時」とまで豪語していた)。

インナースリーブでは、メンバーによる特別対談が記されており、内容はリリースの意図や各曲の紹介などで、この全曲解説でもそれを参照したいと思う。それの田村の発言によると「レコーディングしてた時にはシングル候補として録音したのに、結局カップリングになった挙句アルバムに可哀想な曲があって、そういう曲に陽の目を、というアルバム」とし、崎ちゃんも「ライブでやってない曲もあるよね」と続け、マサムネは「そういう主役になれなかった"無冠の帝王"たち」と苦笑しつつ締めくくっている。
その言葉通り、少なくない数の曲がシングル向きと言えるような説得力を持っているし、どの曲もアルバムにひと味入れるのに手伝いそうな曲ばかりだ。

マサムネは後に、そのアルバムの性質から、「実際クオリティは高いけれど、『このアルバムが一番好き!!』とか言われるとちょっと複雑になる」と語ったが、個人的にはこのアルバムをベストアルバムに挙げている人は少なくないし、実際に自分も一時期までは、そうかも?と思っていた。苦笑

それと言うのもやはり、楽曲のクオリティが単なるB面の枠に収まらないものであると同時に、何故か、このアルバム全体の空気がB面集なりの「日陰者」のようなムード(しかし、それは決して卑屈なものではなく、表には出さない隠していた気持ち/原動力という感じだ)もあり(仮タイトルが『裏街道』であったことも、それを示しているようだ)、妙な統一性を生んでいることも大きい。
ジャケットが示すように、どこか秋の終わりの迫り来る物哀しさ、ノスタルジアに満ちているのも魅力的だ。またサウンド的には、もちろん意図せずだろうが、ギターのサスティンが長くエフェクターなどで音色にこだわった曲が多いのも特徴と言えるだろう。


このアルバムでベストアルバムではなく『裏街道』の露出というオルタナティヴなテーゼを打ち出した彼らであったが、そのベストアルバムは、ある「事件」により、この後簡単にリリースされてしまう。不買呼びかけ運動などを起こさなかったものの、メンバーから直々に謝罪文を発表するなど異例の騒動になったこのベストアルバムの後に彼らは「近代」に入る。
つまり、これは超初期〜初期〜中期までの彼らの「まだ言えていなかった想い」を詰めたものであり、それは華々しい輝きというよりは、彼らの裏側を晒したような脆さも持っている、メンタリティとしては最もオルタナティヴなアルバムと言えるかも知れない。

99年3月リリース。
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